最高裁判所第一小法廷 平成元年(オ)516号 判決 1991年4月11日
上告人
三菱重工業株式会社
右代表者代表取締役
飯田庸太郎
右訴訟代理人弁護士
山田作之助
竹林節治
門間進
畑守人
羽尾良三
中川克己
被上告人
齋木福右衛門
同
藤本忠美
同
田中太重
同
佐々木萬亀子
同
横矢シマノ
同
高橋一雄
同
松田次郎作
同
井村正一
同
西垣冨美子
同
田野米三郎
同
南日輝
同
前田利次
右一二名訴訟代理人弁護士
藤原精吾
前哲夫
高橋敬
深草徹
小澤秀造
山根良一
同訴訟復代理人弁護士
増田正幸
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人山田作之助、同竹林節治、同門間進、同畑守人、同羽尾良三、同中川克己の上告理由第一点について
被上告人齋木福右衛門その他原判示の者らが上告人の神戸造船所における騒音の被曝によって騒音性難聴に罹患したとの原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足り、原判決に所論の違法はない。論旨は、ひっきょう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。
同第二点について
所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足りる。右認定事実によれば、上告人の下請企業の労働者が上告人の神戸造船所で労務の提供をするに当たっては、いわゆる社外工として、上告人の管理する設備、工具等を用い、事実上上告人の指揮、監督を受けて稼働し、その作業内容も上告人の従業員であるいわゆる本工とほとんど同じであったというのであり、このような事実関係の下においては、上告人は、下請企業の労働者との間に特別な社会的接触の関係に入ったもので、信義則上、右労働者に対して安全配慮義務を負うものであるとした原審の判断は、正当として是認することができる。そして、原審の適法に確定した右事実関係の下においては、上告人主張の免責事由は認められないとした点、その他所論の点に関する原審の判断も正当として是認することができる。原判決に所論の違法はない。論旨は、ひっきょう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は独自の見解に立って原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。
同第三点、第四点について
所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、ひっきょう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は原審の裁量に属する慰謝料額の算定の不当をいうものにすぎず、採用することができない。
よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官橋元四郎平 裁判官大内恒夫 裁判官四ッ谷巖 裁判官大堀誠一)
別表1
伝音難聴
による聴力
低下分
(%)
加齢による
聴力低下分
(%)
,以外の
聴力低下分
(100--
;%)
①
神戸造船
所入構前
の騒音被
曝期間
(年)
②
神戸造船所
就労期間
(年)
平均進展図
における聴力
低下程度(dB) (注1)
=/×100
(%)
のうち神戸
造船所入構前
の聴力低下分
(×;%)
神戸造船所に
おいて認め得る
聴力低下分の
上限
(100---
;%)
備考
(左記①の期間の経歴)
①の期間
①+②の
期間(注2)
藤本
5.4
30.7
63.9
10
24
50
67
74.6
47.7
16.2
S12/4~S14/4 逸見鉄工所
S17/4~S20/10 兵役
S21/4~S24又は25
三菱鉱業崎戸鉱業所
(原判決認定せず)
佐
々木
22.2
40.5
37.3
12
21
53
66
80.3
30.0
7.3
S9/10~S20/9 川崎重工業
(ただし,S11/6~7,S11/8~
S13/4,S14/5~S17/2の兵役
を除く)
S23~S25 川崎重工業
S25~S30又は31 桑畠興業
横矢
4.1
58.5
37.4
12
35
53
67
79.1
29.6
7.8
S3/4~S15/5
川崎重工製鈑工場
井村
7.6
42.2
50.2
20
20
59
67
88.1
44.2
6.0
S6/4~S12/12 松帆鉄工所
S17/2~S20/3 〃
S20/9~S30/11 〃
西垣
8.6
47.6
43.8
9
26
49
67
73.1
32.0
11.8
S10~S14 帝国酸素
S21/4~S24/7 昭和製作所
前田
31.9
43.8
24.3
18
11
58
64
90.6
22.0
2.3
S8/12~S10/10 兵役
S12/9~S14/12 〃
S19/7~S20/8 〃
S10/10~S12 台湾電化
(原判決認定せず)
S14/12~S19 〃
S20/8~S22/4 〃
S36/4~S39/5 要工業
S40/1~S40/9 高市工業所
注1.いずれも②の期間において聴力低下が最も進行する4,000Hzの数値を採用した。
2.平均進展図の曝露年数は35年程度までしか数値を読み取れず,またその後の聴力損失の進行は微々たるものであるため,横矢・井村については便宜的に
①+②を35年とした。
別表2
伝音難聴
による聴力
低下分
(%)
加齢による聴力
低下分
(%)
,以外の
聴力低下分
(100--;%)
神戸
造船所
構内就労期間
(年)
平均進展図に
おける
聴力低下程度(dB) (注)
=/×100
(%)
のうち時効
消滅期間(①)に
おける聴力低下分
(×;%)
②において
認め得る聴力
低下分の上限
(100--
-;%)
備考
(左記①の期間)
① 時効
消滅分
②
①以外
①の期間
①+②の
期間
斉木
17.6
43.1
39.3
10
11
50
60
83.3
32.7
6.6
S30/6~S39/9
松尾鉄工・光合同
S40/1~S40/8
神和工業
(原判決認定せず)
田中
2.4
36.6
61.0
11
22
51
66
77.3
47.2
13.8
S9/7~S20/8
上告人従業員
高橋
2.2
34.9
62.9
18
5
58
61
95.1
59.8
3.1
S24/10~S29/6
上告人従業員
S29 ~S30/12
松尾鉄工
S30 ~S32/10
金川造船
S32/11~S39/9
三神合同
S39/10~S42/6
嶋産業
(いずれも原判決認定
せず)
田野
7.6
42.2
50.2
9
24
49
66
74.2
37.2
13.0
S11/10~S20/9
上告人従業員
注.いずれも②の期間において聴力低下が最も進行する4,000Hzの数値を採用した。
別表3
伝音難聴
による聴力
低下分
(%)
加齢に
よる聴力
低下分
(%)
,以外の
聴力低下分
(100--;%)
①
神戸造船所
入構前の騒
音被曝期間
(年)
②
神戸造船所
就労期間
(年)
平均進展図
における聴力
低下程度(dB) (注1)
=/×100
(%)
のうち神戸
造船所入構前
の聴力低下分
(×;%)
神戸造船所に
おいて認め得
る聴力低下分
の上限
(100---
;%)
備考
(左記①の期間の経歴)
①の期間
①+②の
期間(注2)
藤
本
右
0
26.7
73.3
6
24
44
65
67.7
49.6
23.7
S12/4~S14/4
逸見鉄工所
S17/4~S20/10
兵役
左
0
23.4
76.6
51.9
24.7
佐
々
木
右
16.3
39.8
43.9
12
21
53
66
80.3
35.3
8.6
S9/10~S20/9
川崎重工業
(ただし,S11/6~7,
S11/8~S13/4,S14/5~
S17/2の兵役を除く)
S23~S25
川崎重工業
S25~S30又は31
桑畠興業
左
14.0
38.8
47.2
37.9
9.3
横
矢
右
0
49.7~51.6
48.4~50.3
12
35
53
67
79.1
38.3~39.8
8.6~12.0
S3/4~S15/5
川崎重工製鈑工場
左
0
42.3
57.7
45.6
12.1
松
田
右
0
38.8
61.2
1.5
32
18
49
36.7
22.5
38.7
S15~S16/5
日本製粉精米所
左
0
28.6
71.4
26.2
45.2
井
村
右
0
46.6
53.4
20
20
59
67
88.1
47.0
6.4
S6/4~S12/12
松帆鉄工所
S17/2~S20/3 〃
S20/9~S30/11 〃
左
0
42.9
57.1
50.3
6.8
西
垣
右
0
45.3
54.7
9
26
49
67
73.1
40.0
14.7
S10~S14
帝国酸素
S21/4~S24/7
昭和製作所
左
0
38.8
61.2
44.7
16.5
前
田
右
0
36.2
63.8
9
11
49
59
83.1
53.0
10.8
S8/12~S10/10 兵役
S12/9~S14/12 〃
S19/7~S20/8 〃
S36/4~S39/5
要工業
S40/1~S40/9
高市工業所
左
0
36.2
63.8
53.0
10.8
注1.いずれも②の期間において聴力低下が最も進行する2,000Hz(松田)又は4,000Hz(松田以外)の数値を採用した。
2.平均進展図の曝露年数は35年程度までしか数値を読み取れず,またその後の聴力損失の進行は微々たるものであるため,横矢・井村については便宜的に
①+②を35年とした。
別表4
伝音難聴
による聴力
低下分
(%)
加齢による
聴力低下分
(%)
,以外の
聴力低下分
(100--;%)
神戸造船所
構内就労期間
(年)
平均進展図
における聴力
低下程度(dB) (注1)
=/×100
(%)
のうち時効
消滅期間(①)
における聴力
低下分
(×;%)
②において
認め得る聴力
低下分の上限
(100--
-;%)
備考
(左記①の期間)
①
時効消滅分
②
①以外
①の期間
①+②の
期間
斉木
右
0
43.9
56.1
――
――
――
――
――
――
56.1
左
0
41.3
58.7
58.7
田中
右
0
40.6
59.4
11
22
51
66
77.3
45.9
13.5
S9/7~S20/8
上告人従業員
左
0
40.6
59.4
45.9
13.5
高橋
右
0
36.4
63.6
――
――
――
――
――
――
63.6
田野
右
0
37.9
62.1
9
24
49
66
74.2
46.1
16.0
S11/10~S20/9
上告人従業員
左
0
40.8
59.2
43.9
15.3
南
右
0
18.4
81.7
4
27
25
49
51.0
41.7
40.0
S14/4~S20/10
上告人従業員
(ただし,
S14/5~S16/2,
S20/3~S20/10の兵役を除く)
左
0
20.9
79.1
40.3
38.8
注1.いずれも②の期間において聴力低下が最も進行する2,000Hz(南)又は4,000Hz(南以外)の数値を採用した。
2.高橋の左耳については,その聴力障害が騒音性難聴ではない。
上告代理人山田作之助、同竹林節治、同門間進、同畑守人、同羽尾良三、同中川克己の上告理由
《目次》
第一点 因果関係
一 騒音性難聴に関する医学的知見と因果関係
二 前歴(騒音曝露歴)と因果関係
三 騒音の許容基準に関する知見と因果関係
第二点 責任
一 下請労働者に対する安全配慮義務
(一) 総論
(二) 各論
二 安全配慮義務の内容
(一) 安全配慮義務の具体的内容
(二) 下請労働者に対する安全配慮義務の内容
三 安全配慮義務の履行
(一) 環境改善面の対策
(二) 衛生面の対策
(三) 各論
四 不法行為責任
(一) 違法性
(二) 過失(注意義務)
五 免責事由
(一) 許された危険
(二) 不可抗力
(三) 危険への接近
第三点 時効
一 聴力障害の進行と時効の起算点
二 中途退職時の時効の起算点
三 総括
四 各論
第四点 損害
一 損害の評価基準
二 控除事由、斟酌事由、損益相殺
(一) 騒音性難聴以外の他原因(伝音難聴)による聴力低下分の控除
(二) 上告人構内以外の他職場等での騒音爆露による聴力低下分の控除
(三) 時効により消滅した聴力低下分の控除
(四) 不可抗力による聴力低下分の控除
(五) 危険への接近の事情の斟酌
(六) 耳栓の不装着の斟酌
(七) 結果回避措置の斟酌
(八) 会社上積補償金
(九) 被上告人南日輝の損害評価
三 上告人の主張する被上告人各人の慰謝料
四 原判決の採用する事由による上告人の寄与分
別表1〜別表4
第一点 因果関係
原判決(その訂正、引用する第一審判決を含む。以下同じ)が上告人神戸造船所(以下神戸造船所という)における騒音曝露と被上告人ら(死亡した一審原告らについては承継前の一審原告らを指す。以下同じ)の聴力障害との因果関係を認めたのは、次の諸点において判決に影響を及ぼすこと明らかな法令違背、理由不備及び理由齟齬があり、取消を免れない。
一 騒音性難聴に関する医学的知見と因果関係
原判決には、被上告人藤本忠美及び同南日輝の聴力障害を騒音性難聴であるとしたことについて、採証法則違反、経験則違反、理由不備の違法がある。
(一) 本件因果関係が認められるためには、被上告人らについて単に聴力障害があるというだけではなく、それが騒音性難聴であると認められることが必要であり、被上告人らの聴力障害が騒音性難聴であると認められなければ、騒音曝露を云々するまでもなく、因果関係は認められないというべきである。
ところで、騒音曝露と聴力障害との関係について言えば、騒音曝露を受けた者が必ず聴力障害を生じるわけではないし、また難聴の種類及び原因は多種多様であって、聴力障害のある者について騒音曝露があるからといって、その聴力障害が必ず騒音性難聴であるというものでもない。
そこで、被上告人らの聴力障害が騒音性難聴であるかどうかは、騒音性難聴に関する医学的知見に基づき検討され、判断されなければならない。騒音性難聴については、音響によって内耳が障害されて聴力低下が生じることが解明されているので、その聴力像には、①他の感音難聴と同様、気導聴力と骨導聴力の差がない。また、経験的に、②初期にはいわゆるC5ディップが認められるなど一定のパターンがある。さらに、③聴力低下の程度やパターンに左右差がないこともわかっている。
したがって、被上告人らの聴力障害が騒音性難聴と認められるためには、少なくともその聴力像が右医学的知見(経験則)と矛盾しないことが確認されなければならない。
(二) しかるに、次に述べるように原判決は、被上告人藤本忠美及び同南日輝について、その聴力像が右医学的知見と矛盾しているにもかかわらず、これを騒音性難聴であるとしているのである。
1 被上告人藤本忠美
原判決は「一審原告藤本の聴力像は、二〇〇〇Hzと四〇〇〇Hzの低下に差がなく、騒音性難聴であるとみるには疑問がないではない」(原判決一四六丁表)として、前記医学的知見と矛盾する点のあることを指摘しておきながら、「同原告が一審被告神戸造船所構内で通算約二四年間就労し、その間…相当の騒音に被曝されていること、…逸見鉄工所及び海軍工廠で通算約四年間ある程度の騒音を受けているが、その影響は無視できないが、その騒音は同被告神戸造船所構内のそれより激しいものではなかったこと、同人の聴力低下には加齢要素による部分が含まれることは否定できないが、他の耳の疾患によるものとは認められないことなどを総合して考えると、同原告の聴力損失と一審被告における騒音被曝とは相当因果関係があるものと認めるのが相当である」(原判決一四六丁裏)と認定した。
しかし、原判決も引用している岡本途也教授の証言では、「(イ)のオージオグラムでは左耳で四〇〇〇Hzの方が二〇〇〇Hzよりも良く、(ロ)(ハ)のそれでも右両損失値が接近しており、このようなことは騒音性難聴ではまず起こらず、非常に稀なこと」(原判決一四六丁表)とされているように、二〇〇〇ヘルツと四〇〇〇ヘルツの低下に差がないことは、医学的知見に照らせば同人の聴力障害は騒音性難聴である蓋然性が極めて低いということを意味しており、「騒音性難聴であるとみるには疑問がないではない」どころのものではない。
これに対し、原判決は藤本の聴力像が前記医学的知見と矛盾するにもかかわらず、騒音性難聴であるとして相当因果関係を認め、その理由として、前記のとおり、同人について騒音曝露があることと、他の耳の疾患によるものとは認められないことを挙げているのであるが、全く理由にならない。
騒音に曝露されたことは、被上告人らの聴力障害を騒音性難聴と認める必要条件ではあっても、十分条件ではない。すなわち、被上告人らの聴力障害を騒音性難聴であると認めるためには、聴力像が医学的知見に照らして矛盾がない上に、騒音曝露があったという事実がなくてはならないのであって、どちらか一方の事実がないときには、もはやそれを騒音性難聴であるとすることはできない。
また、他の耳の疾患によるものとは認められないというが、これも他の耳の疾患によるものかどうかは不明であると言うのが正しく、証拠上積極的に他の耳の疾患によるものではないとまで言えるものではない。証拠上は、難聴のうち原因不明の感音難聴はその数が非常に多く、七割にも達するとのデータもある(<証拠>)。
したがって、騒音曝露はあるが、聴力像が騒音性難聴に関する医学的知見に矛盾し、他の耳の疾患によることが不明であるとしか言えないときに、「総合判断」の名のもとに、藤本の聴力障害を騒音性難聴であるとした原判決には、採証法則違反、経験則違反、理由不備の違法がある。
2 被上告人南日輝
(1) 原判決は、南の聴力障害に関し、「聴力像は、その進行経過からみれば疑問があり、また、加齢によるものがあることは否定し難いものの、パターンとしておおむね高音漸傾型を示しており、騒音性難聴の聴力像とみても矛盾はない」(原判決二五六丁裏)と認定する。
しかし、右は証拠に基づかない判断である。南の場合、証拠上(聴力検査結果)、その聴力像を騒音性難聴と見て矛盾がないか否かの考察を加えることがそもそもできないのである。
すなわち、騒音性難聴は感音難聴のひとつであることに鑑みれば、当該聴力障害が感音難聴か否かは、その聴力障害を騒音性難聴の聴力像とみて矛盾がないかどうかを判断するための最も基本的な判断根拠であり、それを判断するためには気導聴力のみならず、骨導聴力の検査結果が示されていることが必要不可欠である。しかしながら、南の場合、本件証拠上骨導聴力が測定されている聴力検査結果は全く提出されていない。このため、「骨導聴力に関するデータがないので感音難聴かどうか判断できない」(<証拠>)とされている。また、原審における証人尋問でも岡本証人は、南の場合骨導聴力の検査結果がないため、南の症例に関する証言は「学問的ではないが」(<証拠>)との留保の下に証言しているに過ぎない。
また、聴力低下の左右差、聴力像のパターンについても、騒音性難聴か否かが問題となっている場合には、本来は気導聴力よりむしろ骨導聴力の左右差の有無やパターンが問題である。なぜなら、仮に気導聴力に左右差がなく、パターンも騒音性難聴の特徴を示している症例であっても、その骨導聴力に左右差があり、パターンも騒音性難聴の特徴を示していなければ、騒音性難聴の聴力像と認められないからである。したがって、骨導聴力の検査結果のない南についてはこの観点からの正確な判断も加えられない。
さらに、南の場合、原判決も認め、証拠上も明らかなとおり、語音最高明瞭度の検査記録も一切示されていないため、語音最高明瞭度と純音聴力損失値との関係からの検討も加えることができない。
被上告人らも、その原審準備書面(二)の「騒音性難聴と認定するための前提条件を充足するか」の項で、南について、その聴力障害は騒音性難聴とみて矛盾がない旨の主張をしていない。
右に述べたとおり、南にあってはその聴力障害を騒音性難聴と認められるかどうかを判断するための基本的な検査記録が示されていないことからして、南の聴力障害を騒音性難聴の聴力像とみて矛盾がないとする原判決の認定は、採証法則違反、経験則違反、理由不備の違法がある。
(2) 原判決が南の聴力像のパターンが騒音性難聴の特徴を備えていると認定したのは<証拠>によったものと推測できるが、そうだとすると原判決のこの判断は、意見書の表現及び証言の一部を取り出し、表面的、断片的にとらえたものであって、その証拠の趣旨を全く逆の意味に取り違えたものである。
すなわち、岡本証人には「オージオグラムのパターンから見るかぎりは、それぞれ騒音性難聴の聴力像とみて矛盾はない」(原判決二五六丁表)との証言があるが、これはあくまで「学問的ではない」との前提の下になされたものに過ぎず、さらに意見書では「この症例は、骨導聴力に関するデータがないので、感音難聴か否か判断できない」としていることから見てもその趣旨は、騒音性難聴の可能性もあり得るという意味に過ぎないことは、明らかである。
また、<証拠>、意見書では南の個々のオージオグラム上、気導聴力のパターンのみは、騒音性難聴の特徴を備えているとの指摘があるが、さらに進んで、その聴力低下の進行経過を全体として見た場合、「この症例は②(昭和四六年三月)から③(昭和五一年九月、衛生課)の五年半の間に損失値が僅かしか変化していないのに対し、③から④(昭和五二年三月、衛生課)に至る約半年間に聴力が急速に低下しており、その後の労災認定の数値は更に極端に低下している。これを全体として騒音性難聴とみるためには、③の時点(昭和五一年九月)以降に、それ以前に比して極めて激しい騒音を発する環境下にいたという事実がなくてはならないこととなる」との指摘もある。すなわち、昭和五〇年九月以降にそれ以前に比して、極めて激しい騒音を発する環境下にいたという事実がない限り、南の聴力障害を騒音性難聴ではないというのが、その意見書の趣旨なのである。そして、証拠上、南は昭和五一年一〇月神戸造船所を退職した以降に、激しい騒音に曝された事実はなく(第一審第二八回南本人三七丁)、結局南の聴力像は「進行経過から見れば、騒音性難聴の聴力像とみるには大きな疑問が残る」とされているのである。
したがって、これに反する原判決の認定は採証法則違反、経験則違反、理由不備があるといわなければならない。
二 前歴(騒音曝露歴)と因果関係
原判決は、被上告人藤本忠美、承継前一審原告佐々木次郎、同横矢役太、被上告人井村正一、承継前一審原告西垣兀及び被上告人前田利次の聴力障害の原因を神戸造船所における騒音曝露によるものであるとし、それ以前の他の場所における騒音曝露によるものとしなかったことについて、左の点に採証法則違反、経験則違反、理由不備の違法がある。
(一) 騒音曝露の期間と聴力損失の進行に関しては、左の知見があるが、いずれも次のとおり曝露後数年のうちに急速に進行し、約一〇年のうちにその人に起こり得る障害をほとんど起こしてしまうとの見解で一致しており、異論を見ないのである。
① <証拠>(新労働衛生ハンドブック・渡部真也執筆)は、「聴力損失の進展の様相は図(略)のように、曝露後数年のうちに急速に進行し、約一〇年のうちにその人に起こしうる障害をほとんど起こしてしまう」(七二八頁)としている。
② <証拠>(「造船所音響の聴器に及ぼす影響に就ての臨牀的研究」草川一正)には、オージオメーターによる聴力検査の結果、「一〇年以上になると聴力障碍を惹起しやすい原因、素質の如何に拘わらず、殆ど一様に可聴域全域に亘って、損失の最大限に達した感ある聴力像を示すに至り」(七五三、七五五頁)と指摘してある。
③ <証拠>(「難聴の診断と治療」立木孝)では、「音響による障害は、騒音曝露開始後の比較的早期に発生し、進行する。その後の進行は一般に加齢による生理的な聴力損失とほとんど同じペースである」(六五頁)と指摘する。
④ <証拠>(「騒音性難聴」川口洋志)によると、四〇〇〇ヘルツの損失値について「就業後一〇年間の聴力変化と、それ以降一〇年間の聴力変化を較べると、後半一〇年間の聴力損失は数値的に二デシベルである。また就業後五年とその後五年間での変化は一デシベルである。このことより就業後一〇年までの間に難聴は完成してしまうものと考えられる。すなわち、騒音による難聴は就業後比較的短期間(就業後約五年間)のうちに急激に起こり、その後は非常に緩慢か停止したような状態になるものと考えられる」と指摘する。
⑤ <証拠>(「騒音性難聴の発生と伝音性難聴」志多享ほか)は、「同一騒音職場での就業年数と騒音性難聴進展との関係をみると、四〇〇〇ヘルツの聴力損失に関する限り就業一〇年までは経年的に平行して増大するが、一〇年を超えると、以後の聴力損失は年齢因子を加味して較正すればほとんど進行しなくなる」(一九四頁)と指摘する。
⑥ <証拠>(「強大騒音の質的量的評価」山本剛夫)では、「四〇〇〇ヘルツのNIPTS(永久的聴力損失)については、曝露年数一〇年と四〇年との間に差を認め得ないとする資料がある」(七頁)とされている。
⑦ <証拠>(外科全書抜粋「音響性外傷」)は、「同一騒音職場での就業年数と騒音性難聴進展との関係をみると、四〇〇〇ヘルツの聴力損失に関する限り就業一〇年までは経年的に平行して増大するが、一〇年をこえると、以後の聴力損失は年齢因子を加味して較正すればほとんど進行しなくなる。騒音の質量ともに異なる四つの各騒音環境下での四〇〇〇ヘルツ聴力損失値と就業年数との関係を年齢因子を較正してみると、各職場とも一〇年をこえると聴力推移は水平となり、聴力損失値はほぼ一定となる」(八三、八四頁)と指摘する。
したがって、神戸造船所における騒音曝露に先立ち一〇年以上の騒音曝露のある被上告人らについては、神戸造船所においてそれ以前よりも強大な騒音曝露を受けたという特段の事情のない限り、先立つ騒音曝露によって騒音性難聴が生じており、その後の神戸造船所における騒音曝露とは相当因果関係はない。
(二) しかるに、原判決は左記の被上告人らについて、一〇年以上の騒音曝露が推認され、かつ、これらの騒音に比して後の神戸造船所における騒音の方が激しかったという事実がないのにかかわらず、後の神戸造船所における騒音曝露との因果関係を認めたのは、採証法則違反、経験則違反、理由不備の違法を犯したものである。
1 被上告人藤本忠美
藤本は、神戸造船所における騒音被爆に先立ち逸見鉄工所、海軍工廠、三菱鉱業において約九年にわたる騒音被爆がある。
(1) 藤本は、昭和一二年四月から同一四年四月まで逸見鉄工所において焼玉エンジンのバーナータンクやボイラーの製造作業に従事し、ガス溶接を行っていた。同所での作業場所は一五名ほどが働ける工場内であり(第一審第二六回藤本本人六丁表)、藤本の周囲では、カシメ(一三〇〜一三四ホン、<証拠>)、コーキング(一〇七〜一二三ホン、<証拠>)、ハンマーによる曲げ加工等が行われており(第一審第二六回藤本本人六丁裏〜九丁表)、藤本本人も「この工場は小規模だったが、ハンマーでの鉄板まげも行っており、かなりやかましい職場でした」(<証拠>)と認めている。
(2) 第一一、第一二海軍航空廠においては、藤本は航空機の発動機製作工程におけるガス溶接作業に従事したが、当時は毎日二時間の残業があり(第一審第二六回藤本本人一四丁表)、戦時体制下、密度の高い作業環境下で作業していた。加えて同人の周囲ではエンジン運転場で長時間エンジンの試運転(九五〜一二〇ホン、<証拠>)が行われたが、その騒音レベルたるや直接エンジン試運転に従事していなかった藤本でさえ耳に綿や紙を詰めて騒音から身を守らなければならない程で(第一審第二六回藤本本人一七丁裏)、同人は相当な騒音被爆を受けたのである(<証拠>、第一審判決七二四丁)。
(3) 原判決は神戸造船所入構以前の藤本の騒音被曝につき、逸見鉄工所と海軍工廠については認定するが、三菱鉱業については「三菱鉱業崎戸鉱業所で最初約一年半は採炭夫として採炭作業に、その後は仕繰夫として坑内の補修作業に当たったが、とくに騒音に被曝されたことを認めるに足りる的確な証拠はない」(原判決一四二丁裏)と判示する。
しかし、藤本自身も供述録取書(<証拠>)において「最初の二年程は採炭作業だったので、コールピックという機械や、発破の穴明けドリルの音は相当うるさく感じられました。……その後は、怪我のため、仕繰夫として、坑内の補修作業にあたることになり」と証言し、鉱山内が相当な騒音職場であり、その騒音に自らが被曝していたことを認めており、原判決も、八七丁裏において鉱山等が騒音職場であることを認めている。そして、その騒音レベルは、コールピック(九五〜一一〇ホン<証拠>)に代表されるようにかなり高いものであり、しかも坑内は非常に空間が狭い場所であることを勘案すれば、反響性が高くなり、その騒音レベルが高かったことは明らかである。
また、一般的にも炭坑内は騒音職場の代表例であり(<証拠>)、坑内作業に従事する労働者には五二%もの高率で難聴が発現しており、採炭夫のそれは六〇%にまで達するのである。
さらには、昭和二〇年代前半は耳栓は開発されていなかったのであるから、当然藤本が三菱鉱業での就労において耳栓をしていたということは考えられない。
したがって、藤本は三菱鉱業においてかなりの騒音に被曝されたと認めるべきであり、「騒音に被曝されたことを認めるに足りる的確な証拠はない」(原判決一四二丁裏)とする原判決には、採証法則違反、経験則違反、理由不備の違法がある。
(4) 一方、藤本が神戸造船所で就労した間については、ほぼ一貫して溶接作業に従事しており、右各所で被曝したような騒音はなかった。すなわち、藤本は昭和二五年から同二八年の間、船台で就労したが、この時期には溶接工法への転換が急速に進められていたこと、また藤本が従事していたマストハウスの組立・取付作業は進水間際に行われるため、その頃にはリベット、コーキング等の作業はほとんど行われていなかったことから、これらの騒音に曝されることもほとんどなかった。
藤本は昭和三〇年から同三七年には製缶工場で主に、タービンケーシングの溶接作業に従事したが、タービンケーシングの溶接ではハツリが行われることもほとんどなく、また昭和三〇年にはチッピングハンマーに替わり、ガスガウジング、アークエアガウジングが導入されており、さしたる騒音に曝された事実はない。
さらに、藤本は昭和三七年から同四〇年の間、船台で就労したが、この時期には溶接工法への転換がほぼ完了していたため、やはりさしたる騒音に曝された事実はない。
また、藤本は昭和四〇年から同五一年まで船殻屋内工場で溶接作業に従事したが、当時は歪取り作業はすべてガスバーナーによっており、またハツリもガスガウジング、アークアエガウジングによって行われていたため、藤本の周辺でさしたる騒音を発する作業はなかったものである。
したがって、藤本が神戸造船所に入ってから受けた騒音は、いずれも同人が神戸造船所に先立ち被曝した騒音レベルより低かったと言い得ても、到底これを上回るものではなかった。
以上述べたところから、藤本が神戸造船所での就労に先立ち、約九年間にわたって被曝した騒音は、いずれも騒音性難聴を引き起こすに充分な騒音レベルであったというべきである。
そうすると、冒頭に述べたところからして、同人の聴力低下と神戸造船所での騒音被曝の間に相当因果関係を認めた原判決には、採証法則違反、経験則違反、理由不備の違法がある。
2 承継前一審原告佐々木次郎
原判決は、「亡佐々木は、一審被告神戸造船所に入構する以前川崎重工業構内でも戦前・戦中・戦後を通じ約一〇年余りを稼働し、当時はまだ釘鋲等の騒音作業が行われていた時期であり、一審被告神戸造船所構内での就労期間と較べると、短いが、当時の造船所の実態から考えると、かなりの騒音被曝を受けたことは否定し難い」(原判決一六九丁表)と認定しながら、「亡佐々木は、戦後昭和三一年三月から同五二年一〇月まで途中約半年間ほどを除いて、通算約二一年余り一審被告神戸造船所構内で稼働し、その間二〇年近くはもっぱら電気溶接作業に従事しており、その間、溶接作業自体の騒音だけでなく、船台その他の作業場所で、鋲接その他種々にわたる騒音に被曝されている」(原判決一六八丁裏〜一六九丁表)として、亡佐々木の聴力障害は、神戸造船所における騒音被曝とは相当因果関係があると判示した。
原判決は、右のように亡佐々木は船台その他の作業場所で、鋲接その他種々にわたる騒音に被曝されていると認定する一方で、昭和二〇年代の川崎重工業で「リベット作業はほとんどなく、ハツリ作業もそんなに多くなかった」(原判決一六四丁)と判断している。しかし、昭和三〇年代の神戸造船所で、鋲接その他種々にわたる騒音に被曝されていたと認定するのであれば、神戸造船所入構に先立ち、しかも川崎重工業が神戸造船所と同規模の造船所であることからして、当時の川崎重工業では亡佐々木が入構した当時の神戸造船所以上に騒音作業が行われていなかったと認定されないはずである。これに反する原判決には、採証法則違反、経験則違反、理由齟齬の違法があると言わなければならない。
他方、原判決の認定では亡佐々木が入構した昭和三〇年頃の神戸造船所では、リベットから溶接への転換が急速に進められており、船舶の溶接率は「昭和三〇年ころには92.3パーセント、昭和四〇年ころに99.7パーセントと進展」(第一審判決六九二丁)しているのである。
この点からしても、亡佐々木が神戸造船所での就労に先立つ川崎重工業で強大な騒音に被曝したとは言い得ても、神戸造船所では到底これを上回るような騒音に曝されたとは言えない。
したがって、冒頭で述べた医学的知見に照らせば、亡佐々木の聴力障害が仮に騒音性難聴であるとしても、神戸造船所での就労に先立つ川崎重工業等で強大な騒音に被曝したことによって惹起されたと言うべく、神戸造船所での騒音曝露との間に相当因果関係を認めた原判決には、採証法則違反、経験則違反、理由齟齬の違法があると言わなければならない。
3 承継前一審原告横矢役太
原判決は亡横矢の聴力障害に関し「(亡横矢は)一審被告造船所に入構する以前に川崎重工製鈑工場で就労しているが、同工場の騒音の程度は、同被告神戸造船所よりは低かったと思われる」(原判決一八八丁)としている。
亡横矢は昭和三年から同一五年までの約一二年間、川崎重工製鈑工場において鉄板及びトタン板の圧延作業に従事し、プル・オーバーという設備によって人力で圧延を行う作業に従事しモーター音、ローラー音、鉄板が床に落ちる音等に曝された。この作業の騒音レベルは原判決(一八一丁)も認めるとおり八五〜一二〇ホン(圧延機)、七二〜一二二ホン(製鉄所全体)という強烈な騒音であり亡横矢は、この騒音に耳栓も支給されることなく約一二年間曝されているのである。
そして、原判決も亡横矢が被曝した騒音について、「亡横矢自身は一審被告神戸造船所構内の騒音より低いと認識しているが、相当程度の騒音に被曝されていたことは、否定できない」(原判決一八一丁)と認定している。
一方、亡横矢は神戸造船所では昭和一五年から同二二年の間、鉄機械工場D棟でジンブル、丸鋸(戦後は電気丸鋸)、マークレスポンチ等を使用し、鋼材の歪取り、穴明け、切断の各作業に従事した。そして、この騒音レベルについて原判決は「ジンブルは……国電の中ぐらいの音」「電気丸鋸は八五ホン以上」「マークレスポンチは……そう高い騒音は出ない」と認定し、さらに「戦後は、仕事量が減じたため、騒音もある程度減少した」としているのである(原判決一八二丁〜一八三丁)。
さらに、昭和二二年以降亡横矢は鉄機械工場B、D、F棟及び船殻課R棟で、鉄板の切断、ジンブルによる型鋼の歪取り、スカラップ抜きに従事しているが、これら作業音についても原判決は「(鉄板の切断作業は)鉄板が切断される時及び切断された鉄板が約一メートルの落差のある受台に落下する時には、かなりの騒音を発した。もっとも、二、三回に分けて切断される場合は鉄板の先端が先に受台に着いているため、その騒音は幾分小さい」「ジンブルは従前のものより騒音の程度は若干低減された」「スカラップ抜きは、打ち抜く時に腹に響くような音がするが、金属音ではなかった」としている(原判決一八三丁〜一八四丁)。
そうすると、原判決は、「川崎重工製銀工場で就労しているが、同工場の騒音の程度は、同被告神戸造船所よりは低かったと思われる」(原判決一八八丁表)と認定しているが、亡横矢が神戸造船所で曝露した騒音レベルは川崎重工製鈑工場で受けたそれより、格段に高いという証拠はなく、むしろ低いレベルであったと認定されるべきである。亡横矢がこのように戦前約一二年間の長きにわたって川崎重工製鈑工場で許容基準を越える極めて高いレベルの騒音に被曝したものである以上、冒頭に述べたところにより、亡横矢の聴力低下と神戸造船所での騒音曝露との間に因果関係を認めた原判決には、採証法則違反、経験則違反、理由不備の違法があると言わなければならない。
4 被上告人井村正一
原判決は、井村が神戸造船所に入構する以前、「家業の松帆鉄工所で鍛冶作業に従事し、騒音に曝されているが、その期間、程度はそれほどでないと思われる」(原判決二二五丁)と判示する。
しかし、井村は松帆鉄工所では約二〇年もの長きにわたって就労しており、その間の作業は鉄を熱してハンマーで叩くことが中心で(第一審第三二回井村本人一〇丁表)、鋲やアングル材を叩くこともあったのであり(同三三丁)、また当時は耳栓もなく(同一一丁表)、原判決も認めるように「鉄工所の騒音に関する調査結果として、製鈑作業その他の作業、鍛冶作業従事者に騒音性難聴が見られた旨の報告がある」(原判決二二〇丁表)ことからも明らかなように、井村は騒音性難聴を惹起し得る可能性のある一定量の騒音に被曝されていたものである。加えて井村は、昭和一三年一月から同一七年二月、昭和二〇年三月から同年九月までの二回の兵役期間、原判決も認めるように「銃や砲の騒音に曝された」(原判決二二〇丁裏)のである。
一方、井村は三、(二)、1で後述するように神戸造船所では入構当所から耳栓の支給を受け、これを装着していたのであるから騒音の許容基準を下回るような騒音しか受けていなかった。
そうすると、原判決は「松帆鉄工所で鍛冶作業に従事し、騒音に曝されているが、その期間、程度はそれほどでない」(原判決二二五丁)と認定しているが、冒頭で述べた医学的知見に従えば、仮に井村の聴力障害が騒音性難聴であるとしても、松帆鉄工所及び兵役時の騒音曝露により惹起されたものであり、井村の聴力障害と神戸造船所での騒音被曝との間に因果関係を認めた原判決には採証法則違背、経験則違反、理由不備の各違法がある。
5 承継前一審原告西垣兀
原判決は、亡西垣の聴力障害に関し、「同人は……一審被告神戸造船所に入構する以前にも都合九年余り他の騒音職場で稼働し、騒音に曝されていることもうかがわれるが、同被告神戸造船所における騒音と較べるとそれ程のものではないと思われる」(原判決二三六丁裏)と判示した。
しかし、昭和一〇年から同一四年の帝国酸素時代及び昭和二一年四月から同二四年七月までの昭和製作所時代、亡西垣は、ガス溶接及びガス切断作業に従事しており、少なくともこれらの作業は神戸造船所入構後の作業(ガス切断作業)と何ら変わるところはない。さらに言えば、神戸造船所では時代の経過とともに工法が改善され騒音が漸減していることは原判決も認めているところであり、さすれば神戸造船所において曝露された騒音レベルは、神戸造船所入構以前の曝露騒音レベルに比して低いことはあっても、決してそれ以上であったとは考えられない。
そうすると冒頭に述べた医学的知見により、亡西垣の聴力障害は神戸造船所入構以前の約九年間にわたる騒音被曝でほとんど完成していたと考えるのが相当であり、右諸点を充分に検討することなく神戸造船所での就労と亡西垣の聴力障害との間に安易に相当因果関係を認定した原判決は、採証法則違反、経験則違反、理由不備の各違法があると言わざるを得ない。
6 被上告人前田利次
前田は昭和八年一二月から同一〇年一〇月、同一二年九月から同一四年一二月及び同一九年七月から同二〇年八月まで延べ五年間にわたり兵役に就いており、この間、原判決も認めるとおり、「実戦にも参加しており、騒音に被曝した」(原判決二七八丁表)。
また、昭和一〇年一〇月から同一二年、同一四年一二月から同一九年及び同二〇年八月から同二二年四月まで延べ九年間、台湾のキールンにある台湾電化に勤務して、電線の付け替え等の作業に従事した。原判決は「同所では変圧器の作動音、電炉の放電音があったが、その騒音程度は不明である」(原判決二七八丁)と認定するが、他方原判決(同丁)は<証拠>によると、電気炉、加熱炉の騒音は一一九〜八三ホンとされていると認定するのであり、しかも、前田はその間耳栓を装着していなかったのであるから、当然前田が台湾電化で就労した間も同程度の騒音に曝露されたと認定すべきであって、これに反する原判決には理由不備の違法がある。
加えて、前田は昭和三六年四月から同四〇年九月までの四年半の間、大同特殊鋼高蔵製作所構内のアーク炉組立工場及び大型加熱炉組立工場でガス切断作業や配管取付作業に従事していたが、その間前田は原判決(二七九丁)の認定するとおり、やはり耳栓を着用せず、かなりの騒音に曝露されたものである。
原判決は、前田の聴力障害と神戸造船所での騒音曝露との間に因果関係を認める理由のひとつとして、前田が「聴力低下に気付いたのは同造船所で就労後約六年経過した昭和四七年ころであること」(原判決二八二丁裏)を挙げるが、三、(二)、2で後述するとおり前田は神戸造船所入構時から耳栓を完全に装着していたことに加え、当時前田は五八歳であることからして、原判決の認定するとおり、「一般に人の聴力は……五五歳を超えるとその低下の速度が急速に大きくなってゆく」(原判決七八丁及び第一審判決六四五丁)のであるから、前田の聴力障害と神戸造船所での騒音曝露との間に因果関係を認めるための根拠とすることはできない。
右に述べたところから明らかなようち、前田は神戸造船所構内で就労するに先立ち、約一八年にもわたり騒音曝露を受けていたのであるから、冒頭で述べた騒音性難聴が惹起される医学的知見よりして、前田の聴力障害は神戸造船所入構以前の騒音曝露によって形成されたものであり、神戸造船所での騒音曝露との間に因果関係を認めた原判決には採証法則違反、経験則違反、理由不備の違法がある。
三 騒音の許容基準に関する知見と因果関係
原判決は、被上告人井村正一、同前田利次が神戸造船所構内において曝露された騒音のレベルを認定するに当たり、騒音の許容基準に関する知見に照らした検討を怠った上に、耳栓の遮音効果を考慮せずに右因果関係を認定したところは採証法則違反、経験則違反、理由不備の違法がある。
(一) 被上告人らの聴力障害を神戸造船所における騒音曝露による騒音性難聴であると言うためには、神戸造船所における曝露騒音が騒音性難聴を引き起こすに充分なものであったかどうかが検討され、判断されなければならないのは当然である。
一般に騒音性難聴を引き起こす蓋然性のある騒音レベルは九五〜一〇〇デシベル程度以上であると言われているが、原判決も言うように、今日においても明らかにはなし難く、その数値を確定することはできない(第一審判決六四二丁)。しかし、一方で騒音の許容基準というものがあり、この許容基準は、通常一般人が当該騒音レベル程度の騒音に長期間曝露されても、騒音性難聴に罹患しないと考えられる基準であり、仮に許容基準程度の騒音に曝露されたとしても、その聴力損失は全く正常域の範囲内にあり、その聴力損失を殊更騒音曝露によってもたらされたと考えなければならない必然性はない。
このことは、次の岡本証人の証言からも明らかである。
① 第一審第一九回岡本証人六四丁裏
「一〇〇ホン以上はまあ大体それでいいんですけれども、それで九〇になったらどうだと言われますとね、我々の頭の中ではもうすでに九〇になれば難聴の中では職業性難聴の起こる頻度というのは少ないわけですよね」
② 原審第九回岡本証人八丁表
「八五dB(A)というのは、その労働者が一日八時間騒音にさらされて四〇年間働いても騒音性難聴にならないであろうというのが八五dB(A)であるということです」
③ 原審第一一回岡本証人調書一一丁裏〜一二丁表
「これは(八五デシベル程度の騒音曝露で騒音性難聴が発生するかどうかについては)病的な場合云々になるとこれでも起こりますということでございまして、これは病的ですね。特殊な人の体質云々、特殊な人になったばあいには起こります」
「そういう人があり得ることは確かだと、一〇万人に一人か何人かは起こり得るであろうと」
「要するに、普通の人なら起こらんというだけの話です」
各国における騒音の許容基準は、「一日八時間曝露の場合で、八五デシベル又は九〇デシベルとするものが多く、最近では八五デシベルを採用する国が比較的多数となっている」(第一審判決六三九裏〜六四〇丁表)。また、我が国の産業衛生学会の提唱する騒音の許容基準は、一日八時間曝露が常習的に一〇年以上続いた場合であっても、聴力損失を一〇〇〇ヘルツ以下の周波数で一〇デシベル以下、二〇〇〇ヘルツで一五デシベル以下、三〇〇〇ヘルツ以上で二〇デシベル以下に止めることができるように設定された騒音レベルである。〔なお、右程度の聴力損失は健常人であっても一日の中で変動する範囲内のものであり(原審第一一回岡本証人一八丁)、また、五〇〇ヘルツ、一〇〇〇ヘルツ、二〇〇〇ヘルツの聴力損失が、仮に最大限見積もってそれぞれ一〇デシベル、一〇デシベル、一五デシベルであったとしても、四分法で一一デシベル程度の聴力損失であり、何ら日常生活に支障を来すことのない程度で、五〇歳代前半の健常日本人の聴力低下と同レベルにすぎない。〕
したがって、神戸造船所における曝露騒音を検討する場合には、右許容基準が目安となり、もしそれが許容基準の範囲内にとどまる場合には、被上告人らの聴力障害との間に相当因果関係がない。
(二) 次に被上告人らの曝露された騒音レベルを認定するためには、被上告人らが耳栓を着用していたかどうかを考慮すべきは当然である。そして、前記許容基準は、労働者が耳栓等の保護具を着用しないで直接騒音に曝される場合の騒音レベルについて言われているものであるから、被上告人らが耳栓を着用している場合にはその遮音効果を考慮して曝露された騒音のレベルが前記許容基準以内かどうかを考察する必要がある。そして、許容基準内にはいる場合には聴力障害と騒音曝露との間に因果関係を認め難いと言うべきである。
<証拠>は、耳栓の完全な装着にはいくつかの問題点があるとしても、耳栓が支給されていた当該工場では八年間という長期騒音曝露に対しても、聴力低下は確実に防止できることを示しているし、耳栓の完全な装着には問題があるとしても、<証拠>では上告人が支給した労研式耳栓の遮音性能は、たとえ耳栓と耳孔との適合度が「不良」あるいは「ヤヤ不良」といった場合であっても、二〇〇〇ヘルツ以上の高周波音域ではいずれも二〇デシベルを超える遮音性能が得られることが報告されている。
しかるに、原判決は耳栓の遮音効果につき<証拠>を挙げながら、耳栓は「人間の外耳道の形状は千差万別であり、大きさも個人差があるため、耳に気密に密着せず、充分な遮音効果が得られない場合もある。のみならず、作業していると直ぐにゆるみ、しはしば外れるとか、耳に適合しないために疼痛や異物感・不快感があって長時間の使用に耐えられない」(原判決九一丁)などと判断する。
しかし、たとえそうだとしても、一日八時間の作業中に耳栓の装着状態が常時不完全であることなど常識的に考えられず、加えて左記の被上告人らは、神戸造船所入構当初から耳栓を装着していたのであるから、曝露した騒音レベルについては、少なくとも二〇デシベル程度の遮音効果を考慮に入れる必要があり、原判決が神戸造船所における騒音レベルについて単に抽象的な耳栓装着上の困難を根拠として、耳栓の遮音効果を評価していない点には、採証法則違反、経験則違反、理由不備の違法がある。
1 被上告人井村正一
原判決は、井村の神戸造船所構内における騒音被曝を認定するに当たり、同人の従事した作業内容について述べながら、その作業音には何ら言及することなく、「(昭和三一年頃から同三六年頃)同原告の周辺では、ハンマーによるジャッキ打撃音その他の音があり、部材をトンボするときに発する音、プレスやジンブルの音等があった」(原判決二二一丁表)とか、「(昭和三六年頃から同四〇年頃)周辺では、穴明け作業のほか、ローラーやプレスによる曲げ加工作業、定盤での線状加熱法による仕上作業がなされており、また時々トンボが行われ、これらの騒音がしていた」(原判決二二一丁裏〜二二二丁表)など、もっぱらその周辺音につき判示する。
原判決は、井村が昭和三一年に臨時工として神戸造船所に入構して以来ほとんど常時耳栓を装着し、その効果を本人が認めているにもかかわらず(第一審第三二回井村本人二六丁表、なお原判決は、耳栓の支給時期を昭和三二年頃と認定しているが誤りである)、同人が被曝した騒音レベルを認定するに当たり、耳栓の遮音効果を何ら考慮に入れていないし、前記騒音の許容基準に照らした検討もしていない。
耳栓の遮音性能は、前記のとおり耳栓と耳孔との適合度が「不良」あるいは「やや不良」といった場合でも二〇〇〇ヘルツ以上の高周波音域ではいずれも二〇デシベルを超える遮音性能があるのであるから、井村が神戸造船所構内で曝露した騒音レベルを原判決の認定した証拠により推認すると、①プレス……八五ホン以上(第一審判決六六二丁表)、②穴明け……九五〜九七ホン(同六五九丁裏)、③ガス切断・加熱……九〇〜一〇〇ホン(同六六二丁表)であるところ、耳栓装着により各々、①プレス……六五ホン以上、②穴明け……七五〜七七ホン、③ガス切断・加熱……七〇〜八〇ホンとなり、いずれも騒音の許容基準である八五〜九〇ホンを大きく下回ることになり、常時耳栓を装着していた井村が騒音性難聴に罹患する可能性はなかったということになる。
以上から、井村の聴力障害は前述した神戸造船所入構前の騒音被曝により惹起され、神戸造船所構内における騒音被曝とは何の因果関係もないことは明らかであり、耳栓の遮音効果を見落とした上に、前記騒音の許容基準に照らした検討を怠ったまま右因果関係を認定した原判決は、採証法則違反、経験則違反、理由不備の違法がある。
2 被上告人前田利次
前田が曝露された神戸造船所構内の騒音として原判決は、船殻屋内工場、M棟(現E棟)におけるガスバーナー、ウィゼル(曲線切りの半自動のガス切断機)、IK(バーナーが直線のレール上を走行する自動切断機)、クレーンの走行音、クレーンから鉄板を下ろすときに床に当たって発する騒音、アングル工場と呼ばれるR棟(現A棟)における自動切断機及びジンブルの作動音、クレーンの走行音、鉄板をクレーンから下ろす時に床に当たって発する騒音等を挙げている。
しかし、原判決は、前田が神戸造船所に入構した当初から耳栓の支給を受け、作業の際はこれを常時着用していた事実を認めながら(原判決二八〇丁表)、同人が被曝した騒音レベルを認定するに当たり、耳栓の遮音効果を何ら考慮に入れていないし、前記騒音の許容基準に照らした検討もしていない。
耳栓の遮音効果は仮に装着度が「不良」、「やや不良」といった場合でも大概二〇デシベルを超えるのであるから、前田が被曝した騒音レベルを原判決の認定した証拠により推認するとしても、①ガス切断……九〇〜一〇〇ホン、②クレーン移動……八〇〜九〇ホン(<証拠>、第一審判決六六七丁表)、③M棟(現E棟)……八六〜九〇ホン、④R棟(現A棟)……八〇〜八五ホン(<証拠>)は、耳栓を装着すれば、許容基準である八五〜九〇ホンすら大きく下回ることになる。
以上から、前田の聴力障害は前述した神戸造船所入構前の騒音被曝により惹起され、神戸造船所構内における騒音被曝とは何の因果関係もないことは明らかであり、耳栓の遮音効果を見落とした上に、前記騒音の許容基準に照らした検討を怠ったまま右因果関係を認定した原判決は、採証法則違反、経験則違反、理由不備の違法がある。
第二点 責任
原判決が上告人に被上告人らに対する債務不履行責任及び不法行為責任を認め、損害賠償の支払いを命じたのは、次の諸点において判決に影響を及ぼすこと明らかな法令違背、理由不備、理由齟齬があり、取消を免れない。
一 下請労働者に対する安全配慮義務
原判決が上告人に下請企業の労働者であった被上告人斉木福右衛門、同藤本忠美、同田中太重、同高橋一雄、同井村正一、同田野米三郎、同南日輝、同前田利次、承継前一審原告佐々木次郎、同横矢役太、同西垣兀(但し、被上告人田中太重、同高橋一雄、同井村正一、同田野米三郎、同南日輝、承継前一審原告横矢役太、同西垣兀は本工であった期間もある)に対する安全配慮義務を肯定したのは、法令の解釈適用を誤り、審理不尽による理由不備の各違法を犯したものである。
(一) 総論
原判決の元請企業の下請労働者に対する安全配慮義務についての判断には、法令の解釈適用の誤り、理由不備がある。
1 原判決は、安全配慮義務について、最高裁判所第三小法廷昭和五九年四月一〇日判決・民集三八巻六号五五七頁、最高裁判所第三小法廷昭和五〇年二月二五日判決・民集二九巻二号一四三頁に準拠して、「雇用契約は、労働者の労務提供と使用者の報酬支払をその基本内容とする双務有償契約であるが、通常の場合、労働者は、使用者の指定した場所に配置され、使用者の供給する設備、器具等を用いて労務の提供を行うものであるから、使用者は、右の報酬支払義務にとどまらず、労働者が労務提供のため設置する場所、設備もしくは器具等を使用し又は使用者の指示のもとに労務を提供する過程において、労働者の生命、身体、健康等を危険から保護するよう配慮すべき義務(以下「安全配慮義務」という)を負っているものと解するのが相当である。右のような安全配慮義務は、ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において、当該法律関係の付随義務として当事者の一方又は双方が相手方に対して信義則上負う義務として一般的に認められるべきものである」(原判決八一丁)と解し、元請企業の下請企業の労働者に対する安全配慮義務につき「安全配慮義務が、ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において、当該法律関係の付随義務として信義則上、一般的に認められるべきものである点にかんがみると、下請企業(会社又は個人)と元請企業(会社又は個人)間の請負契約に基づき、下請企業の労働者(以下「下請労働者」という)が、いわゆる社外工として、下請企業を通じて元請企業の指定した場所に配置され、元請企業の提供する設備、器具等を用いて又は元請企業の指示のもとに労務の提供を行う場合には、下請労働者と元請企業は、直接の雇用契約関係にはないが、元請企業と下請企業との請負契約及び下請企業と下請労働者との雇用契約を媒介として間接的に成立した法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入ったものと解することができ、これを実質的にみても、元請企業は作業場所・設備・器具等の支配管理又は作業上の指示を通して、物的環境、あるいは作業行動又は作業内容上からくる下請労働者に対する労働災害ないし職業病発生の危険を予見し、右発生の結果を回避することが可能であり、かつ、信義則上、当該危険を予見し、結果を回避すべきことが要請されてしかるべきであると考えられるから、元請企業は、下請労働者が当該労務を提供する過程において、前記安全配慮義務を負うに至るものと解するのが相当である。そして、この理は、元請企業と孫請企業の労働者との関係においても当てはまるものというべきである」(原判決八二丁裏〜八三丁裏)と判示している。
2(1) 上告人は、使用者が雇用契約上労働者に対して安全配慮義務を負担することに異論をもつものではないが、右安全配慮義務を負担する範囲を下請会社の労働者(社外工)にまで拡張することには承服できない。
原判決の引用する最高裁判所第三小法廷昭和五九年四月一〇日判決は、安全配慮義務の適用を雇用契約関係に限定せず、「安全配慮義務は、ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において当該法律関係の付随義務として当事者の一方又は双方が相手方に対して信義則上負う義務として一般的に認められるべきである」と判示している。右最高裁判決にいう「ある法律関係」や「社会的接触の関係」の具体的内容及び範囲は明確でないが、右最高裁判決が国の国家公務員に対する安全配慮義務が問題となった事案であることからすれば、民法上の雇用契約関係でない、国家公務員法等公法関係に基づく国と国家公務員との関係においても、雇用契約と同様に安全配慮義務を認めたものであり、全ての「法律関係」やあらゆる「社会的接触の関係」にまで、これを認めたものと解することは困難である。
何人も他人の生命・身体・財産等を侵害しないように配慮すべき一般的な注意義務を負っており、この注意義務に違反すれば不法行為責任を問われることになるが、一般的注意義務以外に特別な注意義務として安全配慮義務を負担するには、契約関係等の法律関係による契約的接触関係の存在が前提であり、単なる事実上の社会的接触の関係や間接的な法律関係では不十分である。
そもそも安全配慮義務を信義則上の義務として認めるには、十分な理由づけが不可欠であるが、使用者がその雇用する労働者に対して報酬支払義務のみならず、安全配慮義務を負担するのは、雇用契約において労働者が使用者の指揮命令に服し、その指定した労務提供場所に配置され、使用者の提供する設備、機械、器具等を用いて労務供給を行うものであり、かつ信義を守るべき義務があるから、これに対応する使用者の義務の中に報酬支払義務のみならず、安全配慮義務も含まれるべきものであると解されるためである。すなわち、労働者に使用者が指定した場所で、その提供した設備、機械、器具等を用いて、使用者の指揮命令に服して労務提供すべき義務がある場合に、その労働者の義務との対応において使用者に労働者に対する安全配慮義務が認められるのである。
それ故、使用者が安全配慮義務を負担するのは、使用者と何らかの契約関係にあり、使用者に対し直接義務を負担する労働者に限定されるべきである。右最高裁判決も、公務員の国に対する職務専念義務、法令及び上司の命令服従義務の対応として国に公務員に対する安全配慮義務を肯定しており、私人間の雇用契約と同様、公務員の義務の対応を根拠に国に安全配慮義務を契約関係的義務として認めているのである。
また、学説や下級審判例(山口地裁下関支部昭和五〇年五月二六日判決)は、請負契約の当事者であっても請負人が注文者の指定した場所で、その提供する設備、機械、器具等を用いて注文者の指揮命令の下に労務を提供するような雇用契約と同視すべき場合には、注文者の請負人に対する安全配慮義務を認めているが、これは請負契約という法律関係により契約的接触関係に入り、しかも請負人に注文主の指揮命令に従うべき契約上の義務が存在するからであり、安全配慮義務が肯定されるのは、このように雇用契約関係もしくは雇用契約と同視すべき契約関係にある当事者に限られる。
原判決は、下請企業の労働者が社外工として、下請企業を通じて元請企業の指定した場所に配置され、元請企業の供給する設備、器具等を用いて又は元請企業の指示のもとに労務の提供を行う場合には、元請企業と下請企業との請負契約及び下請会社と下請労働者との雇用契約を媒介として間接的に成立した法律関係に基づいて、元請会社と下請会社の労働者(社外工)とは、特別な社会的接触関係に入ったものと解して、その「法律関係」及び「社会的接触の関係」の範囲を不当に拡大している。直接の契約関係が存在せず、元請企業の提供した設備、器具等を用い、元請企業の下請企業に対する注文主としての指図により労務に従事しているにとどまる下請企業の労働者(社外工)は、元請企業との間に法律関係もなく、その社会的接触関係も単なる事実上のものであり、下請労働者は、元請企業に対して直接労務提供義務や指揮命令に服すべき法律上の義務を負っておらず、このような法的義務を負っていない下請労働者に対してまで、元請企業の安全配慮義務を肯定することは、安全配慮義務が双務契約たる雇用契約において基本的に認められた趣旨から逸脱している。しかも、不法行為責任の前提となる一般的注意義務だけでなく、契約責任の前提となる安全配慮義務を負担する範囲をこのように間接的な法律関係まで広げることは、右の最高裁判決の予定しているところではなく、元請企業が安全配慮義務を負担する範囲をこのように拡大した原判決は、法令の解釈を誤ったものである。
原判決はさらに、元請企業が作業場所、設備、器具等の支配管理又は作業上の指示を通じて、物的環境あるいは作業行動又は作業内容上からくる下請労働者に対する労働災害ないし職業病発生の危険を予見し、右発生の結果を回避することが可能であり、かつ信義則上当然危険を予見し、結果を回避することが要請されてしかるべきであると考えられることから、元請企業が下請企業の労働者に対して安全配慮義務を負担すると解するのが相当であるとしているが、元請企業が事実上器具等の支配管理を行い得る立場にあるとしても、それはあくまで一般的注意義務の範囲であり、それを超えた特別な契約責任の根拠たる安全配慮義務の根拠とはなり得ない。しかも作業上の指示は、下請労働者に対して直接なされるものではなく、下請企業に対する注文者としての指図に他ならず、これにより下請労働者の労務の提供に事実上影響を与えるものであっても、下請労働者に元請企業に対する直接の服従義務がない以上、一般的注意義務以上に特別な義務として安全配慮義務を負担させる根拠とすることは、誤りである。
(2) 原判決は、元請企業が下請企業の労働者に安全配慮義務を負担する場合として、「下請企業の労働者が、社外工として下請企業を通じて元請企業の指定した場所に配属され、元請企業の供給する設備を用いる場合」(原判決八二丁裏)又は「下請企業の労働者が社外工として下請企業を通じて元請企業の指定した場所に配属され、元請企業の指示のもとに労務の提供を行なう場合」(同丁)を挙げている。原判決のいう「下請企業の労働者が、社外工として下請企業を通じて元請企業の指定した場所に配属され」るとは、元請企業が個々の下請労働者の技能等に着目して、下請労働者に対して、構内での就労場所を直接指定するような場合を指すのか、元請企業では就業する個々の下請労働者について全く関知しないが、下請労働者が下請企業の労務指揮により元請企業が下請企業に指定した場所で就労する場合をも含むのか不明である。もし、元請企業が直接就労場所を指定しない場合をも含むと解するのであれば、安全配慮義務の範囲が際限なく拡大して一般的注意義務と何ら変わらなくなり、原判決は債務不履行責任と不法行為責任を混同する誤りを犯している。
また、「元請企業の指示のもとに労務の提供を行なう場合」とは、元請企業が個々の下請労働者に直接作業上の指示を与える場合に限るのか、元請企業が下請企業に注文者として行った指図が、下請企業の労務指揮を通じて下請労働者に指示として伝達される場合を含むのか不明である。もし、元請企業の注文者の指図が間接的に下請労働者に伝達される場合をも含むと解するのであれば、元請企業はほとんどの下請労働者に対し安全配慮義務を負担することになり、雇用契約を典型として認められた安全配慮義務の趣旨を全く没却することになる。
仮に、元請企業に下請労働者に対する安全配慮義務を認める見解に立ったとしても、元請企業が下請労働者に対して就業場所の指定や作業上の指示など直接指揮命令を行わない場合にも、雇用契約の使用者と同様の安全配慮義務を負担すると解することは、前述した安全配慮義務の性質からして失当であり、原判決には、元請企業が下請労働者に対して安全配慮義務を負担する要件につき理由不備があり、かつ法令の解釈適用に誤りがある。
(二) 各論
原判決の下請労働者である被上告人藤本忠美、同田中太重、同南日輝、承継前一審原告佐々木次郎、同西垣兀に対する上告人の安全配慮義務を認めた判断には、理由不備がある。
原判決は、上告人が社外工である被上告人らに対する安全配慮義務を負う要件を右のように判示しながら、以下の被上告人らに関する要件の存否について、十分な審理を尽くしておらず、また、証拠によらずに事実認定しており、理由不備がある。
1 被上告人藤本忠美
原判決は、藤本が近藤鉄工所、原初鉄工所、宇津原鉄工所及び三神合同に在籍した間につき、「いずれも下請会社を通じて一審被告の指定した同被告神戸造船所構内の作業場所で同被告の所有ないし管理する設備・器具等を用いて又は同被告の職制の指示のもとに労務を提供した」(原判決一四七丁)と認定しているが、藤本の供述録取書(<証拠>)並びに第一審での藤本本人の尋問結果等いずれの証拠をみても、藤本が上告人の指定した作業場所で、上告人の所有ないし管理する設備・器具等を用いて、就労した証拠や、上告人から直接指揮命令を受けたことを客観的に示す証拠は何ら存しないし、かえってこれを否定する証拠が以下のとおり存在しているのである。
(1) 近藤鉄工所
藤本は、近藤鉄工所に在籍していた間(一年程)、マストハウスの組立、取付作業に従事している。当時の仕事は、「自分とこ(近藤鉄工所)が組立てたハウスなり品物を各現場に取付けに上る」仕事であり(第一審第二六回藤本本人二八丁表)、作業の指揮命令も当時近藤鉄工所のボーシンであった藤井が行っていた(第一審第二六回藤本本人二六丁裏)。
(2) 原初鉄工所
神戸造船所から原初鉄工所への発注は、溶接長を基準とした請負形態であり、上告人の従業員が原初鉄工所の従業員に直接指揮することはなかった。第一審での安田証人の証言は、煙突の製作における作業形態に関するものであるが、はっきりこの事実を裏付けるものとなっており、下請企業は煙突をいつまでに仕上げるという格好で仕事をしており、上告人の従業員が藤本に対して作業指示をしていたのではない(第一審第三九回安田証人一八丁裏〜一九丁表)。
(3) 宇津原鉄工所(後に三神合同)
昭和三〇年頃から同三七年頃まで、藤本のボーシンは村上忠義(一審原告)であった。村上は当時、宇津原鉄工所が請負った製缶関係業務の取りまとめを行っており、宇津原鉄工所、あるいは三神合同の現場事務所で就労していた(第一審第二六回藤本本人五二丁裏〜五三丁表)。このようないわゆる総ボーシンとは別に、宇津原鉄工所、あるいは三神合同では同社が請負った作業を行う現場毎に現場の作業者の長たる意味でのボーシンがおり(第一審第二六回藤本本人五三丁裏、第一審第三七回松本証人五丁表)、彼等が総ボーシンから伝達された作業内容に従い、現場作業員に指揮命令を下していた(第一審第三七回松本証人六丁表)。藤本も現場専任のボーシンから直接指揮命令を受けていたのである。
藤本が宇津原鉄工所及び三神合同時代に従事した電気溶接作業の請負形態については、上告人は、溶接長と溶接時間を決めて下請会社に発注するのみであり、下請会社の従業員に対して個々に指揮命令することはなかった。
以上のとおり、原判決の認定は、証拠に基づかない単なる憶測であって、藤本が近藤鉄工所、原初鉄工所、宇津原鉄工所、三神合同で就労した間につき、上告人が安全配慮義務を負うとする原判決には、理由不備がある。
2 被上告人田中太重
原判決は、田中が金川造船、三神合同、豊起工業に在籍した間につき、「(神戸造船所)の職制の指示のもとに社外工として労務を提供したものである」(原判決一五七丁)から、上告人は田中に対し安全配慮義務を免れるものではないとするが、そもそも田中は、社外工時代は雇用先会社のボーシンから指揮、命令を受けていた旨、また三菱の従業員と一緒に作業することはなかった旨認めているのであり(第一審第一七回田中本人一一丁〜一二丁)、原判決の認定は証拠に基づかない単なる憶測にすぎない。したがって、田中が金川造船、三神合同、豊起工業に在籍した間につき、上告人が安全配慮義務を負うとする原判決には、理由不備がある。
3 承継前一審原告佐々木次郎
原判決は、亡佐々木が神和工業、三協工業(東亜外業)及び近畿工業所に在籍した各期間につき、「一審被告の指定した同被告神戸造船所構内の作業場所で、同被告の所有ないし管理する設備・器具等を用いて又は同被告の職制の指示のもとに社外工として労務を提供した」(原判決一六九丁裏〜一七〇丁表)と認定しているが、神戸造船所構内での作業については、亡佐々木の供述録取書(<証拠>)並びに第一審での亡佐々木本人尋問結果等いずれの証拠をみても、亡佐々木が東亜外業に在籍した期間、亡佐々木の就労場所を上告人が指定し、又は亡佐々木が上告人の所有ないし管理する設備・器具等を用いて、あるいは上告人の職制の指示のもとに就労したことを示す証拠は一切存在しない。かえって、亡佐々木自身が「(上告人の)作業長から直に言われることはなくて、やっぱり自分とこの東亜のボーシンが聞いてきてですね、まあ新造船の場合は何番ホールドから何番ホールドまでは東亜というふうにやっとったんと違いますか」(第一審第三〇回佐々木本人二六丁裏〜二七丁表)と証言していることからしても、上告人の従業員から直接の指揮命令がされなかったことが認められ、原判決の認定は、証拠に基づかないものであり、理由不備がある。
4 承継前一審原告西垣兀
原判決は、亡西垣が金川造船に在籍した間につき、「一審被告の指定した同被告神戸造船所構内の作業場所で、同被告の所有ないし管理する設備・器具等を用いて又は同被告の職制の指示のもとに」(原判決二三七丁)社外工として就労したから、上告人は、亡西垣に対し安全配慮義務を免れるものではないとするが、神戸造船所構内での作業については、亡西垣の供述録取書(<証拠>)並びに<証拠>等いずれの証拠をみても、亡西垣が金川造船に在籍した期間、亡西垣の就労場所を上告人が指定し、又は亡西垣が上告人の所有ないし管理する設備・器具等を用いて、あるいは上告人の職制の指示のもとに就労したことを示す証拠は一切存在しない。右判決の認定は、証拠に基づかない単なる憶測であって、亡西垣が金川造船に在籍した期間つき、上告人が安全配慮義務を負うとする原判決には、理由不備がある。
5 被上告人南日輝
原判決は、南が鈴木工業所に在籍した間につき、「一審被告の指定した同被告神戸造船所構内の作業場所で、同被告の所有ないし管理する設備・器具等を用いて又は同被告の職制の指示のもとに社外工として労務を提供した」(原判決二五七丁)と認定しているが、南の供述録取書(<証拠>)並びに<証拠>等いずれの証拠をみても、南が鈴木工業所に在籍した当時、南の就労場所を上告人が指定し、または南が上告人の所有ないし管理する設備・器具等を用いて、あるいは上告人の職制の指示の下に就労したことを示す証拠は一切存在しない。右判決の認定は、証拠に基づかない単なる憶測であって、南が鈴木工業所に在籍した間につき、上告人が安全配慮義務を負うとする原判決には、理由不備がある。
二 安全配慮義務の内容
原判決は、上告人が被上告人らに対して負担する安全配慮義務の具体的内容について、理由齟齬、理由不備、法令の解釈適用の誤りの各違法を犯したものである。
(一) 安全配慮義務の具体的内容
原判決の上告人が被上告人らの騒音性難聴の防止に関して負担する安全配慮義務の具体的内容についての判断には、理由齟齬、理由不備、法令解釈の誤りがある。
1(1) 原判決は、安全配慮義務の具体的内容につき一般的に「使用者の安全配慮義務の具体的内容は、労働者の職種、労務内容、労務提供場所等安全配慮義務が問題となる当該具体的状況等によって異なるべきものであることはいうまでもない。したがって、使用者と労働者の雇用契約関係が相当長期間に及び、その間に技術革新が進み、医学が進歩発展を遂げ、また経済的、社会的情勢が大きく変換したような場合には、安全配慮義務の具体的内容も、その時代の技術水準、医学的知見、経済的、社会的情勢に応じて変容することがあるものというべきである」(原判決八一丁裏〜八二丁表)と判示し、そして、上告人の負担する安全配慮義務の内容を検討するにあたり、耳栓をはじめとする騒音性難聴の防止対策につき、戦前はもちろん、戦後かなり遅い時期まで、技術面、経済面をはじめとする種々の要因により現実的な実施が困難であったことを認めている(同八七丁〜九一丁)。
そして原判決は、上告人が騒音職場において被上告人らに対して負うべき安全配慮義務の内容として「労働省労働基準局安全衛生部編、労働衛生のしおり(昭和五三年版)において明示された〔イ環境改善、(イ)音源の改善 (ロ)しゃ音の措置 (ハ)吸音の措置、ロ騒音の測定、ハ防音保護具の支給・着用、ニ作業者の衛生教育、ホ聴力の検査等の〕騒音性難聴予防対策を、問題とされる時代における技術水準、医学的知見、経済的、社会的情勢に応じて可能な範囲で最善の手段方法をもって実施すべきであったもの」(原判決九二丁表)と判示する。
(2) しかし、原判決自身が「全国労働安全衛生週間のしおり(労働衛生のしおり)では、昭和五三年版にはじめて……騒音性難聴の一般的な予防対策が記載されている」(原判決九〇丁表)と述べているように、「労働衛生のしおり(昭和五三年版)」は、当然昭和五三年までの社会的意識の高揚、科学的知見の集積、技術水準の向上等を基礎に作成されているのであり、これをもっていかなる時期においても妥当する普遍的な内容とすることは、明らかに誤りである(その点は後に詳述する)。
使用者がその雇用する労働者らに対して負担する安全配慮義務の内容は、技術的、社会的、経済的に実施可能であることが必要であるから、一方で、労働衛生のしおり(昭和五三年版)に記載された騒音性難聴予防対策の個々の内容について実施困難な時期のあったことを認めながら、他方で、時期を限定せず概括的に労働衛生のしおり(昭和五三年版)の騒音性難聴予防対策をもって、上告人が被上告人らに対して負担している安全配慮義務の具体的内容とした原判決には、明らかな理由齟齬がある。
(3) また、原判決は、遮音・吸音の措置につき「一般的に、遮音・吸音の措置は、……作業者自体が発する作業音の防音には役に立たず、したがって、造船作業のように環境音よりも作業音の方が問題である場合には、本来有効適切な防音対策とはなり難いこと、環境音の遮音の措置に限ってみても、造船所においては、……建屋の規模が極めて大きく、距離による減衰を考慮に入れると、さして防音効果があるとは考えられないこと、さりとて作業者の周囲をついたてや隔壁で囲うことは、上方からの騒音防止には役立たず、上部をも囲うことは……技術面、衛生面、安全面において種々問題があること、また船台や船台上に隔壁を設けることは、クレーンの移動を伴う造船作業上、不可能か著しく困難であり、現実的、実用的な方法とは考えられないこと、一方建屋内に吸音板を設置することは、建屋が大規模で、しかも開口部が大きく多数ある関係上、ほとんど防音の効果が得られないこと、以上のような難点から日本国内はもちろん世界的にみても全面的な防音対策として遮音板・吸音板を設置している造船所は見当たらない」(原判決九六丁裏〜九七丁裏)と判示して、造船所における騒音対策としての非現実性、非効果性を認めているのであるから、技術面、安全面、衛生面での種々の問題があり、曝露騒音の低減効果のない遮音・吸音の措置は、その非現実性のゆえに上告人の安全配慮義務たり得ないのである。
しかるに、原判決は、遮音・吸音の措置につき、労働衛生のしおり(昭和五三年版)に騒音職場での一般的な騒音性難聴予防対策として記載されていることのみに依拠して、上告人の被上告人らに対する安全配慮義務の内容と認めており、この点において原判決の判断には、明らかな理由齟齬がある。
2 原判決は、使用者の安全配慮義務の具体的内容が、労働者の職種、作業内容、作業場所等安全配慮義務が問題となる当該具体的状況等によって異なることを認めたのであるから、本件においても、被上告人ら各人毎にその作業内容、職種、作業場所、作業時期、利用設備・器具等に応じて問題とされる各時代における技術水準、医学的知見、社会的情勢に応じて何が可能な範囲で、どのような最善の手段をもって、いかなる義務を果たすべきであったかを検討した上で、上告人の安全配慮義務の内容を具体的に特定しなければならないにもかかわらず、その点については全く判断していない。換言すれば、被上告人各人毎に、いかなる時点においてどのような工程をどのように変更すべきであったのか、作業場所のどの位置に遮音板等を設置すべきであったのか、作業時間をいつから何時間に減少すべきであったのか、いつ配転すべきであったのか等々につき、まったく判断がなされていないのである。
例えば、原判決の認定によれば、被上告人松田次郎作は、昭和一六年八月に徴用工として神戸造船所に入構し、同年から昭和一九年頃までは撓鉄S棟において板撓鉄と呼ばれる外板曲げ加工業に従事し、昭和二一年一月からは本工として再入構し、同三二年九月頃までは撓鉄S棟において型撓鉄と呼ばれる型鋼の曲げ加工作業に、昭和三二年九月頃から同三九年三月頃までは、B棟(現G棟)、M棟(現E棟)、L型クレーン下等で玉掛や運搬作業に、昭和三九年頃からはB棟でフレームプレーナ専属の玉掛作業に、昭和四二年頃からはフレームプレーナの操作作業に、昭和四七年頃からはU棟(現C棟)、B棟(現G棟)等でフレームプレーナやEPM(自動罫書き装置)の油さし等の作業等にそれぞれ従事した(原判決二〇九丁表〜二一二丁裏)。このように、それぞれの作業について、作業時期、作業内容、利用設備・器具、作業場所、作業環境が多岐にわたるにもかかわらず、原判決は、それぞれの作業毎に安全配慮義務の内容を具体的に特定することなく、包括的に、上告人が安全配慮義務を完全に履行したものとは認め難いと判示しているのすぎない(原判決二一六丁表)。すなわち、被上告人松田次郎作のそれぞれの作業について、その当時の技術水準、医学的知見、社会的情勢に応じて、いかなる難聴防止対策が、技術的、社会的、経済的に可能であるか、上告人に防止対策のどの点に不履行があったのか、その不履行と被上告人松田次郎作の聴力低下と因果関係があるのかを順次認定しなければ、上告人の安全配慮義務を問えないにもかかわらず、原判決は、このような判断を全く行っていないのである。
以上述べたとおり、原判決は、上告人の被上告人らに対する安全配慮義務の内容を判示するに当たり、最も重要な被上告人らの個別具体的な事情に則した検討を全く行っておらず、これは、原判決が上告人の債務不履行責任を問責しているにもかかわらず、その債務を特定していないという全くもって不可解極まりないものであることを顕著に示すものであり、原判決には理由不備があるものと言わざるを得ない。
3 原判決が安全配慮義務の具体的内容について理由齟齬、理由不備の誤りを犯したのは、安全配慮義務の具体的内容の主張・立証責任の法則に関する解釈の誤りが原因であると思料される。
最高裁第二小法廷昭和五六年二月一六日判決・民集三五巻一号五六頁は、安全配慮義務の内容の特定と義務違反に該当する事実の主張・立証責任につき、「国が国家公務員に対して負担する安全配慮義務に違反し、右公務員の生命、健康等を侵害し、同人に損害を与えたことを理由として損害賠償を請求する訴訟において、右義務の内容を特定し、かつ、義務違反に該当する事実を主張・立証する責任は、国の義務違反を主張する原告にある、と解するのが相当である」と判示している。右事案は、国の国家公務員に対する安全配慮義務が問題となったものであるが、最高裁判所は安全配慮義務につき、雇用契約関係と公務員関係とを別個のものと解していないのであるから、右判示は本件にも当然当てはまるものであるが、これを本件に当てはめれば、被上告人各人毎にその作業内容、職種、作業場所、利用設備・器具等に応じて個別的に安全配慮義務の内容を特定し、かつ上告人の義務違反に該当する事実を主張・立証する責任は、被上告人らにあることになる。
しかるに、被上告人は、抽象的かつ包括的に「労働衛生のしおり(昭和五三年版)」の内容をもって上告人の安全配慮義務であると主張・立証するにとどまり、被上告人各人に則した安全配慮義務の具体的内容や上告人の義務違反に該当する事実の主張・立証を行っていない。原判決は、その点を考慮することなく、被上告人らの主張に則った判断を行っているのであり、明らかに主張・立証責任の法則に関する解釈を誤っている。原判決が、安全配慮義務を労働者の生命、身体、健康等を危険から保護するよう配慮すべき義務と定義し、その具体的内容が技術水準、医学的知見、経済的・社会的情勢に応じて変容するものと判示しているのであるから、使用者等の負担する安全配慮義務を労働者の生命、身体、健康等に対する侵害を発生させない結果責任的な絶対的義務としてではなく、労働者の生命、身体、健康等に対する危険防止のための最善の努力、手段を講ずべき義務として理解していることは明らかである。安全配慮義務をそのようにとらとえる以上、その義務の具体的内容の主張・立証責任は、損害賠償を請求する被上告人らにあることは明白であり、原判決は、安全配慮義務の主張・立証責任法則に関し、判例に違反してその解釈を誤っている。
(二) 下請労働者の対する安全配慮義務の内容
原判決の下請労働者に対する安全配慮義務の内容についての判断には、法令の解釈適用の誤りがある。
原判決は、上告人に直接雇用されていた被上告人のみならず、下請労働者であった被上告人斉木福右衛門、同藤本忠美、同田中太重、同高橋一雄、同井村正一、同田野米三郎、同南日輝、同前田利次、承継前一審原告佐々木次郎、同横矢役太、同西垣兀に対しても、上告人は同一の内容の安全配慮義務を負担すると解している。しかし、元請企業が下請労働者に対して安全配慮義務を負うことに疑義があることは、前述したとおりであり、仮に元請企業が下請労働者に対し安全配慮義務を負うとしても、下請労働者に対する安全配慮義務、とりわけ衛生面における対策義務は、第一次的にはその雇用主である下請企業が負担すべきであり、元請企業の安全配慮義務はその支配領域にある設備、機械、工具等による危険防止の範囲にとどまるべきであり、労働安全衛生法、同規則に事業者の義務と定められている健康診断、保護具の支給、作業時間の規制等までが、直ちに雇用主と重畳的に元請企業が負う安全の内容となるものではない。これらの事項につき、元請企業は、下請企業が衛生対策をとるように指導したり、下請企業の衛生対策を実施するにつき協力したりする義務に尽きるのであり、この点は、労働安全衛生法第三〇条において、特定元方事業者は、その労働者及び関係請負人の労働者の作業が同一の場所において行われることにより生ずる労働災害を防止するため、必要な措置を講ずべき事項のひとつとして、「関係請負人が行う労働者の安全又は衛生のための教育に対する指導及び援助を行うこと」と定めることからも類推される。ましてや、元請企業が指導や協力、援助の範囲を超えて、特定の下請労働者について配置転換や作業時間(騒音曝露時間)の短縮の措置をとるよう下請企業に働きかけることは、独立して人事権、労務指揮権を行使する下請企業の存在さえ否定しかねないものであり、元請企業といえども、それらの措置をとることはできない。
よって、原判決はこの点につき法令の解釈適用を誤っている。
三 安全配慮義務の履行
原判決が上告人に安全配慮義務の不履行があるとしたのは、審理不尽による理由不備、理由齟齬、経験則違反による法令違背の各違法を犯したものである。
(一) 環境改善面の対策
原判決の上告人に環境改善面の対策における安全配慮義務の不履行があるとの判断には、理由不備、理由齟齬、法令違背がある。
1 原判決は、上告人の環境改善面の対策につき、結論として「その要求される水準を考慮しても、前記(四)2〔「労働衛生のしおり」(昭和五三年版)に記述の騒音性難聴の予防対策等〕に掲げた環境改善事項を履行していたものとは認め難い」(原判決九九丁裏)と判示するが、神戸造船所は、後述するように、世界的にも最高位にある我が国の造船技術を駆使し、また各時代において業界の最先端をゆく新技術を開発・導入しながら、可能な限りの工法改善を行ってきたのであり、それによる騒音低減は、直接個々の作業員の騒音被曝量の低下、ひいては難聴防止につながっているのであり、上告人は環境改善面における安全配慮義務を確実に履行してきたのである。にもかかわらず、原判決は、作業内容、作業場所、作業時期等が異なる被上告人各人毎に、上告人がいかなる環境改善事項を果たすべきであったのか、安全配慮義務の具体的内容に言及することなく、抽象的な安全配慮義務の内容しか判示せずして、あるいは技術的、経済的に実施不可能な措置を、あるいは非現実的な措置を、その義務内容として、上告人にこれら義務違反があると判断した。右判断は、その前提たる安全配慮義務の具体的内容を確定せずに、その不履行を肯定するといった論理矛盾に満ちた不当極まりないものであり、全面的に取消されるべきである。
2 原判決は、工法等の変更と騒音の関係につき、例えば造船技術の画期的な革新である鋲接から溶接への工法転換が造船所における騒音の軽減化に大いに貢献したこと(原判決九四丁裏〜九五丁表)、「NCガス切断機や自動溶接機など自動機器の開発、実用化は作業者が騒音源から離れて作業することを可能ならしめ、騒音曝露の影響を少なくするのに役立った」(原判決九六丁表)こと、その他工法改善によっても騒音レベルが低減していることを認めながらも、「工法等の変更に伴い、生産量は飛躍的に増大したが、同時に作業の絶対量の増大、作業密度の程度の増大がもたらされたと考えられる。そして、このことが、工法等の変更に伴う騒音の減少にある程度マイナス要因になったものと考えてよいであろう」(第一審判決六九五丁裏)と判示する。
そもそも、原判決が述べる作業の絶対量の増大、あるいは作業密度の増大が、いかなる内容を意図するものか明確に示されておらず、理解に苦しむところであるが、原判決自身が、例えば造船技術の画期的な革新である鋲接から溶接への工法転換は、「船台における密度の高い集中的な作業の分散が行われたことにより、造船所における騒音の軽減化に大いに貢献した」(原判決九五丁表)、「曲げ加工における変更等により、……撓鉄工程は……昭和二九年ころには外板の曲げ加工はA棟へ、鉄構関係の小物の曲げ加工関係はE棟へ、それぞれ移されるなど、工場各所へ分散配置されるようになった」(第一審判決六九一丁裏)、また、「ブロック建造方式が本格的に採用されるようになった……ため、作業は分散し、……船台における作業密度が減少した」(第一審判決六九三丁表及び原判決九四丁表)と判示して、工法等の変更に伴い、むしろ作業密度の程度が減少していること、あるいはこれにより騒音の軽減が図られることを認めているのであり、右判断には明らか理由齟齬がある。
また、工法等の変更に伴う生産量の増大が作業の絶対量の増加に結びつくものでないことは、証拠により認められるのである。すなわち、生産量の増大は、①ハード面・ソフト面を含む製作技術の進歩、②船舶の大型化、③生産設備の大型化・近代化といった要因により可能となったものであるが、これらはいずれも生産量の増大に対する作業の絶対量を低減させる方向に寄与するものであり、生産量が増大しても作業の絶対量はそれに比例して増加するものではない。
具体的には、製作技術の進歩及び生産設備の大型化・近代化とは自動溶接機、EPM、大型プレス等の導入や設計技術をはじめとする生産管理技術の向上などであるが、これらが、一度に大量の鋼材を加工することを可能にしたり、作業時間を大いに短縮したことなどから、作業効率の大幅な向上につながり、生産量が同じであっても作業の絶対量を減少していったのである。
また、船舶の大型化という点であれば、同じ生産量であっても一万トンの船を一〇隻造るより、一〇万トンの船を一隻造る方が明らかに作業の絶対量は少なくて済むのである(原審第七回藤田証人二五丁〜二七丁)。
さらに、神戸造船所において昭和三〇年代末から同四〇年代にかけて船舶の建造量が約三倍となっているが、建造隻数は数隻増えたに留まり、一隻当たりのトン数は二倍以上と船が大型化しているのであり、建造量が増大しても作業の絶対量はそれ程増加していないのである(<証拠>)。
このような、生産量の増大が作業量の増大に結びつくものでないとの明白な証拠があるにかかわらず、原判決がこれらの証拠を無視し、何らの証拠によらず、生産量の増大が作業量の増大をもたらしたと認定したことには、理由不備、かつ経験則に違反して証拠の評価を誤った法令違背がある。
3 次に、原判決は、「一審被告は、最先端の新技術を逸早く導入し、あるいは自ら開発して、積極的に工法の改善に努めてきたが、その改善は、もっぱら技術革新により建造工程、工期を大幅に節減し、作業能率を向上させ、ひいては国際競争力を高めることを目的として行われたもので、騒音防止対策を直接の目的とするものではなかった」(原判決九七丁裏〜九八丁表)と判示する。
しかし、神戸造船所が行ってきた各種新技術の導入、工法の改善は、船舶の建造を中心とした各工程の能率向上もさることながら、作業が容易かつ安全に誰にでも行え、かつ作業環境も改善されるという目的をも満足させる方向へ進められたものであり(第一審第一四回岡本治郎証人三五丁裏〜三六丁表)、仮に生産性を飛躍的に向上させる新技術・新工法であっても、それが作業者に危険をもたらすようなものであれば、そのような新技術・新工法は採用されないのである。現に能率向上には必ずしも結びつかないが、作業環境は改善される方向へと変更されたものとして、ピーニングから線状加熱法への転換、機械的切断からガス切断への転換等があり(第一審第一三回岡本治郎証人二七丁)、作業員が曝される騒音の減少についても常に意を用いていたのである。原判決は、上告人の行った技術革新や工法改善の目的を云々するが、前述のとおり、結果的には作業環境は改善されているのであるから、右施策は環境改善策として正当に評価されなければならない。
このように、上告人の各時代における最善の工法改善の全てが、騒音低減を主目的とするものではないとしても、騒音作業を減少させたのは争えない事実であり、これが主たる目的でなかったとしても、前記証拠によりこれをもって上告人が騒音減少に対し、何ら対策を講じなかったなどとは到底断言できないはずであり、原判決の判断には、経験則に違反する法令違背がある。
4 また、原判決は、「一審被告神戸造船所における工法の改善に伴い、全体的には騒音の減少が進行したものの、部分的には相当遅くまで激烈な騒音作業が残されたばかりでなく、溶接工法の大量導入により、チッピッグハンマーによる裏溝ハツリや溶接コブハツリが増え、騒音作業が増大した面があった」(原判決九八丁表)と判示するが、神戸造船所は、原判決も認めるように、世界的にもほぼ最高位にある「我が国の造船界における新技術の導入・開発についてはトップレベルにあ(り)」(第一審判決六八七丁表)、こうした新技術を基に種々の工法の改善に努め、なし得る限りの騒音の減少を図ってきたのである。金属の加工する場合にある程度の騒音の発生は不可避であり、世界的にも最高位にある我が国造船界の技術水準を駆使して工法改善に努めて騒音低減を図っても、なお残存する騒音の除去は、技術的に不可能としか言いようがなく、このような当時の最高水準の技術を駆使しても残存する騒音の減少対策は、上告人の負担する安全配慮義務の内容とはならず、上告人はその不履行の責を負うものではない。なお、こうした工法改善後もなお残存するほとんどの騒音に対しては、耳栓を装着することにより、作業者が許容基準を上回るような騒音に被曝することはなかったのである(このことについては(二)衛生面の対策の項で後述する)。
そもそも鋲接から溶接への工法転換は原判決も認めるように、「強大な騒音作業である鉸鋲(カシメ)や填隙(コーキング)が姿を消し、また船台における密度の高い集中的な作業の分散が行われたことにより造船所における騒音の軽減化に大いに貢献した」(原判決九五丁表)ものなのである。原判決が溶接工法の大量導入によって増えた作業として挙げる裏溝ハツリは、それを必要とするのは突き合わせ溶接部に限られているし、溶接コブハツリもその部位が小さく、ハツリも瞬間的に終わるものであるから、仮にこうした作業がいくばくか増え、何がしかの騒音が増大したとしても、鉸鋲、填隙が駆逐されたことによる画期的な騒音低減と併せみた場合、さして問題になるものではなく、決して全体的に「騒音作業が増大した」などと言えないのは明らかなところであり、原判決の右判示には、経験則に違反する法令違背がある。
5 さらに、原判決は、「チッピングハンマーによるハツリについては、遅くとも昭和三〇年代前半にはその発する騒音の比較的少ないアークエアガウジングやガスガウジングが導入されており、それらへの全面的転換が可能であったのに、昭和四〇年代後半に至るまで転換が完了していない。一審被告は昭和四四年ころになってようやくチッピングハンマーによる騒音の絶滅対策に取り組んだけれども、それ以前には騒音の減少を正面に掲げた取組が行われた形跡はない」(原判決九八丁)と判示する。
原判決も認めるように、騒音性難聴の根本的な防止方策としての機械工具の改良や作業方法の改善は、工学関係の技術問題などもあり、現実的な実施が困難な場合が多かったのであるが、そうした中でも、神戸造船所は、先にも述べたとおり、業界でも逸早く各時期における最新の技術・工法を自ら開発、あるいは導入して積極的に騒音状況及び作業環境の改善に努力してきたのである。しかし、これら新技術・新工法が完全に定着し、あるいは従前の技術・工法に取ってかわるまでに一定の期間を要するのは、例えば、我が国造船界において昭和二四年〜二五年ころ以降転換が始まったブロック建造方式の体制が確立されたのがようやく昭和三〇年頃であることや(原判決九四丁)、神戸造船所の例でみても、曲げ加工につき、昭和二九年に開発された線状加熱法を翌年頃には逸早く導入し、最大限の努力をしながら昭和三五〜三六年頃に、ハンマー打撃・ピーニングにほぼ取って変わったことなどからも明らかなのである。
右判示に関しても、原判決が述べるとおり、神戸造船所においては、昭和三〇年頃には既にガスガウジングを使用しており、同三三年には、業界のトップグループとして、アーク・エア・ガウジング四セットを購入したことを皮切りに、同三四年には三セットを導入(第一審第一二回岡本治郎証人五一丁〜五二丁、<証拠>)、その後も継続してチッピングハンマーからアーク・エア・ガウジング及びにガスガウジングへの転換を進めていったのであり、決して昭和四四年ころ以前に騒音の減少を正面に掲げた取組を行わなかったのではない。そして、この転換がたまたま昭和四〇年代後半まで完了していない一事を過大視し、上告人が騒音低減対策を怠ったのごとく判示する原判決には、経験則に違反する法令違背がある。
(二) 衛生面の対策
原判決の上告人に衛生面の対策における安全配慮義務の不履行があるとの判断には、理由不備、法令違背がある。
1 原判決は、上告人が戦後従業員として神戸造船所構内で就労した被上告人高橋一雄、同松田次郎作、同井村正一、同南日輝、承継前一審原告横矢役太、同西垣兀に対し「騒音性難聴に対する衛生面の対策としては、耳栓の支給とその装着指導を主要なものとして実行してきたこと、作業場における騒音測定と作業者の聴力検査は戦後比較的早い時期から実施された」(原判決一〇〇丁裏〜一〇一丁表)と認定しているが、耳栓の支給、装着指導だけでは騒音性難聴の防止対策としては十分でないこと、聴力検査は三年に一度の割合で行っているが、作業場の騒音状況からすれば聴力低下の進んだ者を早期に発見するには受検の間隔が開きすぎていること、難聴の進行がある者に対しては配置転換や騒音曝露時間短縮の措置をとるべきであったのに、その措置をとろうとしたこともないこと等を挙げて、上告人には安全配慮義務違反があると判示する(原判決一〇一丁)。しかし、原判決の右認定には、以下に詳述するとおり、これに反する明白な証拠を無視または曲解するような経験則に反して証拠の評価を誤った法令違背、理由不備がある。
(1) 耳栓の支給、装着指導
ア 原判決は、耳栓の支給、装着指導だけでは騒音性難聴の防止対策として不十分である理由として、「耳栓は数次の改良により次第に耳になじみやすく、装着しやすいものになり、またはずれにくいものになってきたとはいうもののそれでもなお、不快感があったり、耳の皮膚が荒れたりして、常時完全に装着するについては困難な面があり、また作業に没頭していると作業中にはずれて、直ちに装着し直すことが困難な面もあり、とくにひもが切れたりして紛失し装着しえない場合もあった」(第一審判決七〇〇丁)ことを指摘する。
なるほど耳栓装着時に不快感があったりして作業者によっては、常時装着し続けることは精神的苦痛を被ることがあることは否めないが、だからといって、本件訴訟において、耳栓の支給、装着指導だけでは防止対策として十分なものではないと断じることはできない。上告人は、耳栓の装着により、耳に炎症が発生することを防止するため、耳栓はアルコールで拭くなどして常時清潔な状態で使用するよう指導するなど(<証拠>)、衛生面にまで気を配って装着指導しており、その甲斐あってか被上告人らを個別に検討すれば、戦後に本工として神戸造船所構内で就労した前述の被上告人ら六名は、少なくとも被上告人南日輝を除けばほとんど常時耳栓を着用していた旨証言している。原判決は、これら各証拠を無視し、労働者は常時耳栓を装着することはできないものと独断したもので、採証法則に違反する法令違背を犯している。
また、原判決は、ひもが切れたりして紛失し装着し得ない場合もあったと認定するが、神戸造船所ではそのような事態に備えて従業員が耳栓を紛失した場合にその都度、所属課の衛生担当者等に請求すれば直ちに代わりの耳栓が支給されるという態勢がとられていたのであり(第一審第一五回生島証人五丁表)、耳栓を常時着用することはできないという原判決の判示には、経験則に反して証拠の評価を誤った法令違背がある。
さらに、原判決は、上告人の耳栓装着指導にもかかわらず、作業者の耳栓の必要性に対する認識が不十分であることが窺えることも耳栓の支給・装着指導だけでは騒音性難聴の防止対策として不十分であることの根拠としている(第一審判決七〇〇丁裏)。しかし、先に述べた本工である被上告人六名の内、耳栓の必要性に対する認識が不十分であった者は一人もいないこと、上告人は、支給と同時にその装着を励行させるための指導、教育についても、①衛生巡視(パトロール)、②耳栓装着標識の掲示、③三分間安全衛生教育、④衛生保護具研修会(懇談会)、⑤視聴覚教育、⑥神船時報によるPR、⑦全国労働衛生週間における行事、⑧各種配布物、⑨新入社員教育など様々な手段・方法を用い、ありとあらゆる機会をとらえて着実に実施していたのであり、それでもなお作業者らの装着が不十分であるとしても、それは作業員の自己保健義務違反というべきこと等からして、原判決の認定には、経験則に違反する法令違背がある。しかも、原判決は、上告人の耳栓装着指導が不十分であるというだけで、上告人の耳栓装着指導以外に具体的にどのような指導対策を講ずるべきであったか全く言及しておらない。効果的な実施可能な指導対策を安全配慮義務の具体的内容として明らかにすることなく、上告人に耳栓装着指導につき不履行を認めた原判決には、理由不備がある。
イ 次いで、耳栓の遮音効果について原判決は、JIS規格に適合する耳栓は一定の遮音効果があることを認めながらも、「JIS規格に合格するような耳栓であっても、人間の外耳道の形状は千差万別であり、大きさに個人差があるため、耳に気密に接着せず、十分な遮音効果が得られない場合がある」(原判決九一丁)と判示する。
しかしながら、上告人が支給した労研式耳栓の遮音性能は、たとえ装着度が「不良」あるいは「やや不良」といった場合であっても二〇〇〇ヘルツ以上の高周波音域ではいずれも二〇デシベルを超える遮音性能が得られること(<証拠>)、八年間という長期騒音曝露を受けても、耳栓装着者には右期間中聴力低下は認められないこと(<証拠>)等が証拠上明らかにされているのである。加えて上告人は、耳栓が各作業者の耳にうまく適合しなければならないということにも配慮し、購入に当たっては耳栓の大きさも大・中・小の三種の耳栓を取り混ぜて購入するなど、万全の措置をしているであるから(第一審第一六回生島証人五五丁)、耳栓を支給され装着していた被上告人らが、実際に十分な遮音効果が得られなかったことなど考えられない。
ある騒音作業下で就労する労働者に対して耳栓等の防音保護具が支給されている時には、その遮音性能を正しく評価することは、耳栓の装着が騒音性難聴予防対策として実効性があるかを判断する上で極めて重要な要素となるのであり、原判決が具体的な証拠に反して漠然と耳栓の遮音性能を過少評価したことは、その認定において経験則に反して証拠の評価を誤った法令違背がある。
ウ 前述のとおり、遮音・吸音等の措置が神戸造船所のような造船工場において、技術面、安全衛生面から非現実的で不可能な対策である以上、業界最先端の新技術、新工法を導入してもなお騒音が残存する状況においては、耳栓等の防護措置が騒音性難聴発生防止に特に有効な手段となり得るのである。上告人は、我が国において効果的な耳栓が初めて開発された昭和二〇年代後半以降、同二六年頃には恩地式耳栓を、同三〇年の耳栓のJIS規格制定後はこれに合った労研式耳栓を支給する(<証拠>)など常に最新の耳栓を支給してきた。そしてこれら耳栓の効果については、右述べたとおり仮に装着度が「不良」、「やや不良」といった場合でも、二〇〇〇ヘルツ以上の周波数ではいずれも二〇デシベルを超えるのであるから、原判決の認定したほとんどの作業により生ずる騒音(すなわち①ガス切断……九〇〜一〇〇ホン、②電気溶接……八五〜九〇ホン、③アーク・エア・ガウジング……八五ホン以上、④グラインダー……一〇〇〜一〇五ホン、⑤プレス……八五ホン以上、⑥片手ハンマー・取付……一〇〇〜一〇七ホン)は、耳栓の装着により作業者にはそれぞれ二〇ホン減衰した騒音(すなわち①ガス切断……七〇〜八〇ホン、②電気溶接……六五〜七〇ホン、③アーク・エア・ガウジング……六五ホン以上、④グラインダー……八〇〜八五ホン、⑤プレス……六五ホン以上、⑥片手ハンマー・取付……八〇〜八七ホン)として影響を与えるのであり、その騒音レベルは概ね騒音の許容基準八五〜九〇ホンを下回ると評価できる。一方耳栓の遮音効果をもってしても、騒音の許容基準を上回る恐れがある強大な騒音作業、例えば、リベット(一一三〜一三〇ホン)、コーキング(一一七〜一一八ホン)、撓鉄鉄板曲げ(九〇〜一二六ホン)等の作業は、既に詳述したとおり船舶建造方式でのリベット工法から溶接工法への転換、あるいはピーニングによる曲げ工法から線状加熱法への転換といった工法改善により昭和三〇年代初めにはほとんどなくなっていたのである。
したがって、遅くとも昭和三〇年代以降、上告人の支給した耳栓を装着しさえすれば、神戸造船所構内の騒音被曝によって騒音性難聴に罹患する可能性がなかったことは明らかであり、耳栓の支給、装着指導をもって、上告人は被上告人らに対する安全配慮義務を履行したことになるのである。これに反する原判決の判断には、経験則に違反する法令違背がある。
(2) 聴力検査の実施
上告人は、昭和二五年、逸早く三菱神戸病院耳鼻科においてオージオメーターを導入し(<証拠>)、その後上告人衛生課が漸次オージオメーターや集団聴力測定器を購入するなど、検査機器、設備の拡充に努めた(第一審第一四回生島証人一八丁、<証拠>)結果、昭和三〇年頃には従業員の聴力状況を把握できるようになった。それ以降、聴力検査結果を基に、個別的に耳栓装着の指導を行い、その徹底を図ることにより聴力障害の発生ないしその増悪の防止のために可能な限りの努力を払ってきた(第一審第一四回生島証人二〇丁)。
しかるに原判決は、聴力検査は三年に一度しか実施していないと認定し、上告人の実施した聴力検査の実施頻度が難聴者を早期に発見するには不十分であると判示する(原判決一〇一丁表)。三年に一回という認定が何を根拠にしているのか定かではないが、おそらく生島証人の「そういう職員には三年に一回実施するというようにしておりました」(第一審第一六回生島証人二六丁表)との証言に基づいていると思われる。しかし、この証言は、オージオメーターを使って集団的に難聴の特殊検診を実施したのは三年に一回という意味であり、少なくとも一年に一回は従業員にスクリーニングテストを実施し、経年的に従業員の聴力状況を把握するよう腐心していたのである。すなわち上告人がレコードに吹き込んだ話し声、時報等を聞かせるスクリーニングを行い、その測定検査を医師が判断してオージオメーターによる精密検査を実施するという特殊検診を毎年一回行ったこと(第一審第一四回生島証人二〇丁表、<証拠>)、通常の健康診断でも問診を行い聴力障害の早期発見に注力してきたこと(第一審第一四回生島証人一五丁裏)は、証拠上明らかであり、三年に一回しか従業員が受診しなかったという原判決の認定は、例えば被上告人松田次郎作が昭和四〇年、同四一年、同四三年、同四四年各々精密検査を受診している一事(<証拠>)をもってしても、事実に反することは明白である。したがって、この点においても原判決には、経験則に反して証拠の評価を誤った法令違背がある。
(3) 作業時間規制・配置転換(配転)
ア 原判決は、難聴の進行がある者に対しては配置転換や騒音曝露短縮の措置をとるべきであったのに、その措置をとろうとしたこともないと判示し(原判決一〇一丁)、上告人の債務不履行を指摘する。
しかし、前述のとおり、昭和三〇年頃以前には従業員らの聴力状況を把握することが困難であり、配転や作業時間規制を講じるための基本的資料を欠いており、これらの対策をとることは不可能であった。特に、後述するように、戦時中は国家的に増産・増員が強制されており、配転や作業時間規制をなし得る可能性は全くなかった。昭和三〇年頃以前には、技術的にも社会的にも上告人が被上告人らの聴力状況を把握して配転したり、作業時間規制をすることは不可能で、これらを昭和三〇年頃以前における安全配慮義務とすることは、誤りである。
前述のように、聴力検査機器や騒音測定装置が開発された昭和三〇年頃には、有効な耳栓が開発され、しかも騒音源対策により騒音レベルも減少しており、耳栓を装着しさえすれば、騒音性難聴に罹患する危険性はなかったのであるから、配転や作業時間規制は当該被上告人らの聴力低下防止のためには必要ではなかった。昭和三〇年頃以後は、技術革新により騒音レベルが低下し、さらに当時開発された耳栓によって騒音性難聴の危険性のある作業者への騒音曝露は回避できたのであるから、配転や作業時間規制は、昭和三〇年頃以後も安全配慮義務の内容とならない。
イ さらに、被上告人らに対して、同人らの聴力状況を把握して作業時間規制や配転といった措置を行うべきであったとしても、それが被上告人らの騒音性難聴の発生あるいは増悪を防止するための効果的な措置であったかどうかは、被上告人らの聴力低下との関連において個別的に考察されなければならない。なぜなら、神戸造船所では、騒音測定装置が開発された直後の昭和三〇年頃には騒音測定を行うとともに、従業員の聴力状況を把握できる体制を整えたが、被上告人らの聴力障害が、それ以前に既に症状固定しているのであれば、漸次騒音レベルが低下していく作業環境下では作業時間規制や配転などを講じたとしても、その聴力低下を防止するためにはもはや何らの効果も期待できないからである。
本書第一点、二、(一)で詳述したとおり、騒音性難聴は騒音曝露後一〇年でほぼ形成され、以後同レベルの騒音に曝されてもほとんど進行せず、その後は仮に進行しても、その程度はほとんど無視し得るほど微々たるものであり、症状が固定もしくはほぼ固定する騒音曝露後一〇年以降に配転や作業時間規制を行っても有効な聴力低下防止対策とならず、上告人の被上告人らに対する安全配慮義務の内容とならない。
そこで、以下昭和三〇年以降本工であった被上告人らについて考察を加えることとする。
① 承継前一審原告横矢役太
亡横矢は、昭和三年四月から同一五年五月まで川崎重工製鈑工場、同一五年六月から同三八年五月まで神戸造船所で就労している。亡横矢は川崎重工製鈑工場で就労中にも相当の騒音に曝露されたが、神戸造船所就労以降に限っても、亡横矢の聴力障害は昭和二五年六月には固定していると考えられる。
② 被上告人松田次郎作
松田は、昭和一六年八月から同二〇年一月及び同二一年一月から同五〇年一〇月まで神戸造船所で就労している。したがって、松田の聴力障害は、騒音職場就労後一〇年を経過した昭和二七年八月には固定している。松田の聴力障害が、このように早い時期に固定していることは、<証拠>①のオージオグラムから⑧のそれにかけてほとんど進行していないことからも知り得る。
③ 被上告人井村正一
井村は、昭和六年四月から同三〇年一一月の間のうち、兵役期間を除く約二〇年間松帆鉄工所で就労し、鉄を熱しハンマーでたたく作業に従事し、相当の騒音に曝露された。したがって、井村の聴力障害は、神戸造船所で就労を始める昭和三一年七月以前に固定している。井村の聴力障害が、このように早い時期に固定していることは、<証拠>①オージオグラムと⑥のそれとの間に全く進行が見られないことからも知り得る。
④ 承継前一審原告西垣兀
亡西垣は、昭和二四年一二月神戸造船所に入社し、ガス切断工として就労する以前にも、ガス切断工として帝国酸素に五年、川崎重工製鈑工場の下請に一年余、昭和製作所に三年余それぞれ就労しており、その聴力障害は、神戸造船所で就労を始めた頃には既に固定している。亡西垣の聴力障害が、このように早い時期に肯定していることは、<証拠>①のオージオグラムから③のそれにかけて全く進行していないことからも知り得る。
⑤ 被上告人南日輝
南は、昭和一四年四月から同二〇年一〇月まで神戸造船所(本工、ただし内二年四か月は兵役)、次の鈴木工業所(神戸造船所構内)に先立つ四年九か月間を長谷川鉄工所(神戸造船所構外)、同三〇年九月から同三一年四月頃まで鈴木工業所、同三一年六月から同五一年一〇月まで神戸造船所で就労した。
したがって同人の聴力障害は、騒音職場就労後一〇年を経過した昭和三一年一一月頃、すなわち戦後本工として神戸造船所に再入社する以前に、既にほとんど症状は固定している。
右に述べたとおり、本工である被上告人らの聴力障害は、上告人が開発された騒音測定装置やオージオメーター等を購入し聴力状況を把握できる体制を整える以前ないし直後に症状固定していたと考えられる。
したがって、職場騒音レベルが漸次低減している環境下では、上告人は引き続き耳栓を支給し、その装着指導に務めていたが、結果的には作業時間規制や配転といった措置は、本工である被上告人らにとっては何らの意味も持たなかったことになる。原判決がこのような点を考慮することなく、労働衛生のしおりに記載されたことのみを理由に配転や作業時間規制を上告人の安全配慮義務の内容としたのは、経験則たる医学的知見に違反する法令違背である。
2 原判決は、「社外工に対しては、耳栓の支給さえ十分ではなく、一審被告は下請企業に対してその支給を指導したにとどまり、聴力検査も行わず、聴力低下の進んだ者に対し配置転換等の措置をとるよう下請企業に働きかけたこともない」(原判決一〇一丁裏)として、上告人に安全配慮義務の不履行があると判示する。
しかしながら、前述したとおり、そもそも上告人は、社外工である被上告人らに対して安全配慮義務を負わないものであるとし、仮に安全配慮義務を負うとしても、衛生面における対策は第一次的にはその雇用主である各下請企業が負担すべき、上告人としては実施不可能であることは既述したとおりであり、上告人に、社外工である被上告人らに対しても衛生面の騒音性難聴防止対策も安全配慮義務の内容であるとした原判決には、法令の解釈適用の誤りがある。
(三) 各論
原判決の上告人に被上告人各人に対する安全配慮義務の不履行があるとの判断には、法令違背、理由不備がある。
被上告人各人の作業内容、作業場所、作業時期、作業環境等に則した安全配慮義務を検討した上で、上告人が各被上告人に対して忠実に安全配慮義務を履行したことを述べ、上告人に被上告人各人に対する安全配慮義務の不履行があるとした原判決に、経験則違反による法令違背、理由不備があることを詳述する。
1 被上告人斉木福右衛門
上告人は、原判決も認定するとおり、斉木が従事した撓鉄作業について、昭和三〇年に逸早く線状加熱法を導入し、同三五、六年頃には全面的にピーニングから線状加熱法への転換を図った。また、昭和三五年頃には曲げ精度のよい一〇〇〇トンプレスを導入するなどし、仕上げ作業の必要性を少なくするなど、可能な限りの音源対策を講じた。しかも、職制からピーニングハンマーの使用は厳しく禁ずる旨の指示を出し、その徹底を図ったことは原判決も認めるとおりである。したがって、上告人は音源対策では完全に安全配慮義務は果たしたというべきであり、これに反する原判決には、経験則に違反する法令違背がある。なお、原判決が「ピーニングは手軽であり、しかも作業者が意のままに的確に曲げの修正を行えることもあって、実際には、作業者の間では相当遅くまで用いられていた」(原判決一一八丁裏)ことをもって、上告人の義務違反の根拠とするのであれば、上告人が右のとおりあらゆる機会にその使用を禁ずるべく指導・教育していた事情を無視するもので、これも明らかに経験則に違反する法令違背である。
また、原判決は、上告人が昭和三〇年代、斉木に耳栓を支給しなかったこと、聴力検査も行わず、配置転換等の措置も採らなかったことも上告人の義務違反のひとつとするが、耳栓の支給あるいは聴力検査の実施といった義務は、斉木の雇用主である光合同等に専属する義務であって、上告人がこれらの措置まで講じるべきであるとする原判決には、法令の解釈適用の誤りがある。
なお、斉木の作業内容からして遮音板・隔壁等の措置は安全面等を考慮した場合、現実には実施不可能であることは既に述べたとおりである。
以上述べたとおり、斉木が神戸造船所構内で就労した期間について、上告人は斉木に対する安全配慮義務を確実に履行したのであり、この点を個別的に検討することなく、上告人に右義務違反を認定した原判決には、理由不備、法令の解釈適用の誤り、経験則違反による法令違背がある。
2 被上告人藤本忠美
上告人は藤本に対し安全配慮義務を履行したと言うべきである。すなわち、藤本が昭和二五年頃船台での電気溶接作業に従事していた際に騒音を受けたとする周辺でのカシメ作業に関しては、上告人がこの頃を境として溶接工法を大幅に導入することで全面的な環境改善を図り、同作業は既に不要となっていったし、また、昭和三〇年代前半に藤本が製罐工場で電気溶接作業に従事していた際に騒音を受けたとするニューマチックハンマーによるハツリ作業に関しては、アーク・エア・ガウジング又はガス・ガウジングに転換することで騒音低減対策を講じていた。そして昭和四〇年ころからの船殻内のブロック溶接においては、片面自動溶接を導入し、裏側からの削り、再溶接を不要とし、アーク・エア・ガウジング自体の必要性も激減させ、昭和四一年六月にはFCB法(溶接部に特殊な材質の裏板を当て、上から溶接することにより溶接部裏側の欠陥をなくし、裏溝ハツリを不要にする方法のひとつ)を利用したFCB片側自動溶接法を採用し、一層の騒音低減対策を図るなど(原判決九五丁、第一審判決六九四丁表)、可能な限りの音源対策を講じた。したがって、上告人は、音源対策では完全に安全配慮義務を履行したというべきであり、結論的にこれに反する原判決には経験則に違反する法令違背がある。
また、原判決は上告人が昭和三〇年代藤本に耳栓を支給しなかったこと、聴力検査も行わず、配置転換等の措置も採らなかったことも上告人の義務違反のひとつとするが、耳栓の支給あるいは聴力検査の実施といった義務は、藤本の雇用主である近藤鉄工所等に専属する義務であって、上告人がこれらの措置まで講じるべきであるとする原判決は、法令の解釈適用を誤っている。
なお、藤本の作業内容からして遮音板、隔壁等の措置は安全面等を考慮した場合、現実には実施不可能であることを付言しておく。
以上述べたとおり、藤本が神戸造船所構内で就労した期間について、上告人は藤本に対する安全配慮義務を確実に履行したのであり、この点を個別的に検討することなく、上告人に右義務違反を認定した原判決には、理由不備、法令の解釈適用の誤り、経験則違反による法令違背がある。
3 被上告人田中太重
原判決は、田中が上告人従業員として就労した昭和九年七月から同二〇年八月の期間につき、上告人が田中に対する安全配慮義務を免れるものではないと判示するが(原判決一五七丁裏)、この間については、原判決自身が「労働者の間においても『耳が遠くなって一人前』という職人的な古い考え方が強い時代であり、……騒音性難聴の防止対策としても、作業者が自衛手段として綿栓を用いる程度であり、その他の対策は本格的に行われていなかったのが実情であった」(原判決八七丁裏)と判示するように、耳栓等の有効な防音保護具も開発されておらず、また船舶の建造方法も、鉸鋲作業が他の接合作業に取って替わられる状況ではなかった。加えて戦時中は、神戸造船所は海軍管理下という特殊状況にあり、上告人が独自に騒音対策を講じることは不可能であり、この間につき上告人に安全配慮義務違反を問責する原判決には、理由不備、理由齟齬の各違法がある。
次に、原判決は田中が昭和二五年から同五二年にかけ、金川造船、三神合同及び豊起工業に在籍し、神戸造船所構内で就労した期間についても、安全配慮義務違反を免れないと判示するが、以下述べるとおり上告人は右期間については、田中に対し可能な限りの騒音性難聴防止対策を講じたのであり、安全配慮義務は忠実に履行した。
まず、田中は、「全期間を通し一貫して穴明工として稼働し……その作業内容は、エアドリル・電気ドリル・エアグラインダーを用いて鋼材の穴明け・皿取り・仕上げ等をする作業であった」(原判決一五三丁表)のであるが、そもそも穴明け自体がさほど大きな音を発するものではなく(第一審第一二回岡本治郎証人一五丁裏)、また錐の切れ味が悪くなったときのみ音が高くなる旨被上告人井村正一が証言している(第一審第三三回井村本人二〇丁表)のである。
原判決は昭和二五年から同二九年にかけ、田中の周辺で鉸鋲、コーキングの騒音があったと判示するが、原判決も認定するように神戸造船所においても、昭和二五年頃を境に溶接工法が大幅に導入され、鉸鋲、コーキングとも不要となっていったのである(第一審判決六九二丁裏)。また田中は、昭和三〇年から同三二年にかけ、鉄構課F棟、G棟等で鉄塔や橋梁用鋼材の穴明作業に従事したが、鉄構関係の接合については、原判決も認めるように鉸鋲からボルト締めに変更されてきており、やはり鉸鋲、コーキングがないため、周辺音が少なくなっていた(原判決一五三丁裏〜一五四丁表)。
次に田中に対する衛生対策は、同人が在籍した各下請企業が実施すべきものであるところ、原判決も認定するように、田中は昭和三三年頃には三神合同から耳栓を支給されており、これを装着するようになったのである。(二)、1、(1)、ウにおいて述べたとおり、耳栓の遮音効果を考えれば、田中の従事した穴明けの作業音九五〜九七ホン(第一審判決六五九丁裏)は、七五〜七七ホンと、騒音の許容基準である八五〜九〇ホンをはるかに下回り、これをもって騒音性難聴は十二分に予防できたはずである。したがって、上告人は先に述べた環境改善策以上の安全配慮義務を負うものではない。
なお、田中の作業内容・作業場所を考慮すれば、遮音板、隔壁等の措置は非現実的であるし、聴力検査の実施や配置転換の措置は、田中が在籍した各下請企業が実施すべき責任を負うものである。
以上述べたとおり、田中が戦後神戸造船所構内で就労した期間について、上告人は田中に対する安全配慮義務を確実に履行したのであり、この点を個別に検討することなく、上告人に右義務違反を認定した原判決には、理由不備、理由齟齬、法令の解釈適用の誤り、経験則違反による法令違背がある。
4 承継前一審原告佐々木次郎
原判決は、亡佐々木が昭和三一年三月から同三五年六月まで神和工業、同三六年一月から同五〇年一二月まで三協工業(東亜外業)に在籍し、船台、ブロック組立場等で溶接作業に従事した各期間について、上告人が安全配慮義務を完全に履行したものとは認め難いと認定する。
しかし、上告人は業界のトップレベルにある技術を駆使し、亡佐々木が神戸造船所に入講した昭和三〇年頃には、従来鋲接で行われていた船舶建造方法をほぼ溶接工法に転換した。すなわち、原判決が認定するとおり、神戸造船所では昭和三〇年頃には船舶建造に占める溶接率は92.3パーセントにまで達し、昭和四〇年頃になると99.7パーセントにまで進展しており(第一審判決九六二丁)、亡佐々木が船台あるいはブロック組立場で溶接作業に従事していても、その周辺では鋲接作業に伴う騒音はほとんど姿を消すに至っていた。上告人が、この鋲接から溶接への転換を図ったことにより、鋲接作業に付帯して行われていた穴明け作業、填隙作業も姿を消すこととなったほか、従来船台に集中していた作業が、各場所に分散されることとなり、亡佐々木の作業環境は著しく改善された状況にあった。この点は、原判決も鋲接から溶接への工法転換の結果「高所での危険な鋲接作業がなくなり、作業の安全化に役立ったばかりでなく、強大な騒音作業である鉸鋲(カシメ)や填隙(コーキング)が姿を消し、また、船台における密度の高い集中的な作業の分散が行われたことにより、造船所における騒音の軽減化に大いに貢献した」(原判決九五丁)と認めるとおりである。
また、ハツリ作業についても神戸造船所では業界に先駆けて「昭和三〇年ころからガス・ガウジングを用い始め、昭和三三、三四年ころには、アーク・エア・ガウジングを購入してこれを用いるようになった」(第一審判決六九四丁)し、昭和四四年一〇月には、まさにチッピングハンマーによる騒音の絶滅対策に取組み、同四六年一〇月には全面的にガス・ガウジング及びグラインダーへの転換を図った。
さらに、原判決は亡佐々木が内業課で就労した際に、隣接する撓鉄工場で行われていたニューマチックハンマーによるピーニング作業の騒音についても問題とするが、被上告人斉木福右衛門の項で述べたとおり、上告人は昭和三〇年には逸早く線状加熱法を導入し、昭和三五年頃には全面的にこの工法に切り替えるとともに、職制からもニューマチックハンマーの使用は厳しく禁ずる旨の指示徹底を図ったのである。
右論じたところからして、上告人は亡佐々木が神戸造船所で就労した作業内容、作業場所、作業期間等との関連においては、最大限亡佐々木が被曝する可能性のあった周辺騒音の低減に務めたと言うべきである。
次に、原判決は上告人が、亡佐々木に対して昭和三七年頃、同人が東亜外業から耳栓の支給を受けるまで耳栓を支給したことがなく、また聴力検査も行わず、配置転換等の措置も採らなかったことも、安全配慮義務違反のひとつとするかのごとくであるが、これらの措置は亡佐々木の雇用主であった神和工業あるいは東亜外業に専属する義務であって、上告人にこれらの措置を講ずるべきであったとする原判決には法令の解釈適用の誤りがある。特に、東亜外業のごときは既に論じたとおり、従業員一五〇〇名を擁し、諸官庁、製鉄・造船・機械メーカー等七〇社以上と取引関係を持ち、自社事務所、各所工場を有する企業であることからすれば、右の理は一層当てはまる。
なお、亡佐々木の作業内容、作業場所を勘案すれば、遮音板、隔壁等の措置を講ずることは、既に述べたように安全・衛生上現実には実施不可能であり、また何らの効果も期待できない。
以上述べたとおり、亡佐々木が神戸造船所構内で就労した期間について、上告人は亡佐々木に対する安全配慮義務を確実に履行したのであり、この点を個別的に検討することなく、上告人に右義務違反を認定した原判決には、理由不備、法令の解釈適用の誤り、経験則違反による法令違背がある。
5 承継前一審原告横矢役太
原判決は、上告人に亡横矢に対する安全配慮義務違反があったと認定するが、上告人は以下述べるように各時代に応じ、同人に対して可能な限りの騒音性難聴防止策を施し、安全配慮義務を忠実に履行した。
まず亡横矢が神戸造船所臨時工として入社した昭和一五年から終戦後にかけては、同人の聴力障害が神戸造船所での就労に一部起因するものとしても、当時は戦時中の特殊事情下にあり、上告人が独自の騒音対策を講じることは不可能であり、原判決がこの期間についても上告人に安全配慮義務違反を問責する点には、理由不備、理由齟齬の法令違背がある。
亡横矢は、昭和二二年頃から同二八年頃までの間、鉄板の切断作業に従事したほか、右述べた神戸造船所入構当時から一貫して主にジンブルによる鋼材の歪取り作業に従事した。
そもそもジンブル自体は、原判決が認定するように「ギアのかみ合う音、モーターの音がする程度で、造船所構内の他の騒音に比べるとさほど大きな音ではない」(原判決一八二丁表)のであるが、これまた、原判決が認定するように、上告人は昭和二九年頃、従前のものより騒音の低い新型のジンブルを導入しているのである。
また、上告人は亡横矢が昭和二八年頃から同四一年頃にかけ、従事したことのある一五〇トン水圧プレスによるスカラップ抜きの作業も、昭和三〇年代の後半には、ガス切断に転換する措置を講じたし、原判決が当時の亡横矢の周辺音として認定している型鋼の歪取りや曲げ加工についても、上告人は昭和二〇年代後半から同三〇年代初期にかけて、ガスバーナーやプレスを用いる工法へと逸早く変更していったのである。
さらに、昭和四一年、上告人は一層の環境改善に向け工場配置の変更を行い、他の工場と仕切られ、騒音レベルもはるかに低い型鋼専門のR棟を新設したが、亡横矢もこの時期以降は、ここで従事しているのである。
なお、亡横矢が就労した神戸造船所の各工場において、遮音板や隔壁等を設置することは、多種多様な大きさ、形状の鋼材を扱う同人及び周辺の作業を鑑みると実施不可能であることは明らかである。
右述べたように、上告人は亡横矢に対しては最大限の環境改善策を講じたのであるが、衛生対策についても、上告人は原判決も認定するように、有効な遮音性能を持つ耳栓が我が国で初めて開発された時期でもある昭和二七、八年頃には同人に対して耳栓の支給を行い、さらに同三三年には装着感の良い新しい型の耳栓を支給し、同人もこれを常用していたのである(原判決一八五丁裏〜一八六丁表)。
そして亡横矢に対して、配置転換や作業時間短縮が同人の聴力低下の防止について効果が期待できなかったことは前述したとおりである。
以上のとおり、上告人は亡横矢に対して、同人が騒音性難聴に罹患しないよう可能な限りの環境改善策、衛生対策を講じ、安全配慮義務を完全に履行したのであるから、この点を個別的に検討することなく、上告人に同義務違反を認定する原判決には、理由不備、理由齟齬、経験則違反による法令違背がある。
6 被上告人高橋一雄
原判決は、高橋が上告人神戸造船所ほか七社にわたる下請企業に在籍した間につき、包括的に上告人が安全配慮義務を完全に履行したものとは認め難いと認定する。
しかし、上告人は高橋に対する関係においては可能な限りの難聴防止措置を講じたものである。すなわち、原判決の認定に従えば、高橋は昭和三二年頃まではキールベンダーあるいはニューマチックハンマーなどによる曲げ加工作業に従事したが、昭和二〇年代にはいまだ線状加熱法も開発されておらず、曲げ加工はこれらの工法によらざるを得なかった。しかし、上告人はこのような中にあっても、高橋が就労していたS棟の作業を「昭和二九年ころには外板の曲げ加工はA棟へ、鉄構関係の小物の曲げ加工関係はE棟へ移す」(第一審判決六九一丁)などして音源の分散に務めた。また、高橋が昭和三二年頃以降従事した部材の仕上げ作業に関しては、斉木の項で述べたとおり、昭和三〇年には線状加熱法を導入して、同三五年頃には全面的にニューマチックハンマーからの転換を図っている。そして、職制から線状加熱法の導入以後は、ニューマチックハンマーの使用を厳しく禁止する旨の指示も出した。
したがって、音源対策の面に関しては、原判決も昭和三二年頃以降、高橋は「主としてガスバーナーを用いて歪取り作業に従事した」(原判決二〇二丁)と認定するところからも明らかなように、上告人は完全に安全配慮義務を履行したと言うべきである。
次に、原判決は上告人が、高橋に対し昭和三五年頃、同人が三神合同から耳栓の支給を受けるまで耳栓を支給したことがなく、また聴力検査も行われず、配置転換等の措置も採らなかったことも、安全配慮義務違反のひとつとするかのごとくであるが、これらの措置は高橋の雇用主であった各下請会社に専属する義務であって、上告人にこれらの措置を講ずるべきであったとする原判決には、法令の解釈適用の誤りがある。
なお、高橋の作業内容、作業場所を勘案すれば、遮音板、隔壁等の措置を講じることは、既に述べたように安全・衛生上現実には実施不可能であり、また何らの効果も期待できない。
以上述べたとおり、高橋が神戸造船所構内で就労した期間について、上告人は高橋に対する安全配慮義務を忠実に履行したのであり、この点を個別的に検討することなく、上告人に右義務違反を認定した原判決には、理由不備、法令の解釈適用の誤り、経験則違反による法令違背がある。
7 被上告人松田次郎作
松田は、昭和一六年八月から同一九年頃にかけて、神戸造船所に徴用工(後に臨時工)として入社し、撓鉄S棟において板撓鉄と呼ばれる外板の曲げ加工等の作業に従事したが、この間は、戦時体制下という未曾有の特殊状況下にあり、当時の社会情勢、医学的知見の水準及び工業的水準に照らして騒音性難聴の防止対策を講じることは不可能であったので、その不作為を理由に債務不履行責任を上告人に問責することはできない。
松田は、昭和二一年に上告人神戸造船所に再入社し、昭和二一年一月から同三二年九月頃までは撓鉄S棟において型撓鉄と呼ばれる型鋼の曲げ加工作業に従事した。同作業に関しては、従来は、加熱炉で加熱し、ジャッキを用いて定盤上に固定し、スキーザを用いて曲げた後、ハンマーで打撃し成形していたが、上告人は、昭和二五年頃には五〇〇トンプレスを導入し冷間曲げ加工に移行させるとともに、昭和三〇年頃には押し曲げ治具を改良してプレスのみで精度の高い曲げ加工を可能にし、ハンマーで成形する作業を格段に減少させた。また、これら曲げ加工における工法改善等により、昭和二九年頃には、加熱炉を中心に撓鉄S棟及び山型T棟に集約させていた撓鉄作業のうち、板撓鉄の関係をA棟へ、鉄構関係の小物曲げ加工関係をE棟へ分散させ、撓鉄S棟の騒音状況は大幅に改善されたのである(第一審判決六九一丁裏)。さらには、昭和二〇年代後半から、船舶建造法が溶接工法に変わったのに伴い、型鋼面をハンマーで仕上げる作業も減じ、騒音を低減させた。
次に、松田は、昭和三二年九月以降主に玉掛け作業に従事したが、昭和三九年二月頃までは、B棟、M棟及びL型クレーン下等で同作業に従事し、それ以降は、主にフレームプレーナ(自動ガス切断機)専属の玉掛け作業に従事した。B棟では部材切断作業が行われたが、ここには昭和三〇年頃にフレームプレーナが導入され、そもそもガス噴射音しかない上に作業者が騒音源から離れて作業することを可能にして騒音曝露の影響を少なくするように役立っていたし、M棟は小組立場で溶接工法への転換により溶接作業が主たる作業になっており、大した騒音ではなかった。L型クレーン下は型鋼のマーキング場であり、リベット工法が行われていた昭和二五、六年頃は、カシメ作業が行われることもあったが、溶接工法の導入に伴い、松田が就業した当時同作業はなくなっていた。松田は、B棟に隣接するA棟におけるピーニング作業の騒音を云々するが、これとて昭和三〇年頃から線状加熱法の導入により減少し、昭和三五、六年以降は、同作業は行われなくなったのである。
なお、撓鉄S棟において遮音板、隔壁等で遮音することは、多種多様な部材の移動の障害となること、これを設置するとかえって作業者が内部にこもり作業者に苦痛を与えることなどを考えただけでも、非現実的であることは明らかであるし、クレーンの玉掛け作業に至っては、これらの遮音対策が実施不可能であることは議論の余地がない。
上告人は、このようにでき得る限りの環境改善対策を講じたことに加え、さらに衛生対策に関しても、松田が撓鉄作業に従事していた時代、すなわち昭和三二年九月以前には耳栓を支給しており(第一審第三一回松田本人二九丁裏、なお原判決は耳栓の支給時期を昭和三二年頃と認定しているが、厳密に言えば右記のとおりである)、松田は常時着用し、その遮音効果を認めている。そして、(二)、1、(3)、ウで述べた耳栓の遮音効果を勘案すれば戦後松田が曝露していた騒音レベルは原判決の認定によれば、①プレス……八五ホン以上、②ガス切断……九〇〜一〇〇ホン、③クレーン移動……八〇〜九〇ホン(以上原判決六六二丁)であるから、耳栓を装着すれば、いずれも許容基準である八五〜九〇ホンを大きく下回ることになり、騒音性難聴を防止することが十分可能であった。また、上告人は松田に対し、少なくとも昭和四〇年以降(それ以前の記録は消失している)、毎年のように聴力検査を実施し(<証拠>)、同人の聴力状況を経年的に把握するように努めていたのである。なお、松田に関し、配転、作業時間短縮が聴力低下を防止する上で効果が期待できなかったことは前述したとおりである。
以上述べたように上告人は、可能な限り環境改善、衛生対策を講じて、松田が騒音性難聴に罹患しないよう配慮を払ってきたことは明らかであり、これらの諸点を個別的に検討することなく上告人の安全配慮義務違反を認定した原判決には、理由不備、経験則違反による法令違背がある。
8 被上告人井村正一
井村は、昭和三一年頃から同三六年頃まで、型鋼の曲げ加工及びそれに伴う歪取り等の作業に従事したが、これら作業については原判決も認定するように、既に「昭和二五年ころには五〇〇トンプレスが導入され、昭和三〇年ころには押し曲げ治具が改良される等により、プレスのみで精度の高い曲げ加工が可能となり、その結果、部材を焼き、ハンマーで形成するという方法を採る必要は少なくなった」(第一審判決六九一丁裏)のであり、また歪取りについても、ガスバーナーによって行われるようになるなど、既にハンマー打撃から発する騒音は駆逐されていたのみならず、これまた原判決が認定するように、曲げ加工における変更等により、撓鉄(曲げ加工)工程は工場各所に分散配置され(第一審判決六九一丁裏)、井村が就労していた撓鉄S棟の騒音レベルを減少させるよう配慮していたのである。また、この時期の井村の周辺の騒音は、例えばハンマーによるジャッキ打撃の音は、振りかぶらずにハンマーの重みで行うので大きな音はせず、部材のトンボは、クレーンで吊り上げゆっくり裏返すので、低い音しかしないことは本人自らが証言している(<証拠>)。
次に井村は、昭和三六年から同四〇年頃まで、外板加工の機械撓鉄に属し、主として穴明け、皿取り(穴の入口を少し削り取る)の作業に従事するかたわら、プレスによる板曲げの先手の作業を行ったが、穴明け及び皿取りの作業は、錐の切れ味が悪くなったときのみ、音が高くなる程度に過ぎないし(<証拠>)、この時代の井村の周辺作業であるローラーやプレスによる曲げ加工、線状加熱法による仕上げといった新工法による騒音も聴力に影響を与えるようなレベルのものではない。さらに当時隣のM棟との間に隔壁がなく同棟からの騒音が響いていたと原判決は認定するが、M棟は小組立場で溶接作業が主たる作業であることからして、大きい騒音があることもなく、また造船所において隔壁が実効性のないことは、既述のとおりである。
さらに井村は、昭和四〇年頃から同五〇年一〇月まで、主として四〇トンプレスによる曲げ加工、ガスバーナーによる仕上げ、アングルの水抜き穴の穴明け等の作業に従事したが、ガスバーナーは、ガスの噴射音のみでさしたる騒音を発するものではないし、プレスによる曲げ加工やドリルによる穴明け作業が大した騒音を発しないことは先に述べたとおりである。
井村が神戸造船所の従業員として就労した間、同人の作業者を遮音板、隔壁等で遮音することは、加工する外板、型鋼等が多様な大きさ、形状であり、これらを覆うことは技術的に不可能で非現実的であり、また、ガスバーナーを用いる作業において安全、衛生面から問題もあることなど、いずれにせよ現実には実施不可能である。
このように上告人は、井村に対して可能な限りの環境改善策を講じたのであるが、これに加えて衛生対策についても、上告人は遅くとも昭和三一年には同人に耳栓を支給しており、本人もほぼ常時耳栓を着用し(第一審第三二回井村本人二六丁表、二七丁表)、かつ、耳栓の遮音効果は本人も認めている(同二六丁)。
そして、第一点、三、(二)、1で詳述したとおり、井村が神戸造船所構内で被曝した騒音レベルは、いずれも耳栓装着により、騒音の許容基準である八五〜九〇ホンを大きく下回り、井村が騒音性難聴に罹患することは、十分防止できたのである。また、上告人は井村に対し、聴力検査を実施し(<証拠>)、同人の聴力状況の把握に務めていた。なお井村に対して、配置転換や作業時間短縮といった措置が同人の聴力低下を防止する上で効果を期待し得なかったことは、前述したとおりである。
以上論じたとおり、上告人は神戸造船所従業員として就労した井村に対して、環境面、衛生面とも最大限の対策を講じ、同人に対する安全配慮義務は忠実に履行したのであり、この点を個別的に検討することなく、上告人に右義務違反があるとする原判決には、理由不備、経験則違反による法令違背がある。
9 承継前一審原告西垣兀
原判決の認定によれば、亡西垣は、昭和二四年八月から同年一一月まで金川造船に在籍して、神戸造船所構内で就労し、引き続き、昭和二四年一二月以降は、臨時工、本工として昭和五〇年一〇月まで同構内で就労した。
亡西垣は、昭和二九年一二月までは船台でガス切断作業に従事したが、原判決が認定するように、造船界においてはこの時期正に鉸鋲から溶接に工法改善が進められたのであり、神戸造船所も積極的に溶接化を進め、船台における騒音を画期的に低減させたのである。
以後、亡西垣は、昭和二九年一二月には溶接研究所に移り、同三二年七月まで、ガス切断機を用いてテストピースの切断等を行ったあと、同三二年八月から同五〇年一〇月に退職するまで、造船工作部鉄構課で鉄管・橋梁・鉄塔用の鋼材を切断するガス切断作業に従事した。上告人は、原判決認定のとおり、ガス切断作業の工程においては、昭和二六年頃半自動ガス切断機(IK)、昭和二九年には国産化されたばかりのフレームプレーナを導入するなど(第一審判決六九〇丁表)、ガス切断作業時に作業者が常時ガス切断機を把持する必要のない工法に腐心したため、作業者が騒音に曝されることは格段に減少した。亡西垣自身が、IK、ウィゼル、フレームプレーナ、NCガス切断機等の機械は大した騒音が発生しなかったことを認めているのである(原判決二三二丁裏〜二三三丁裏)。
また、隔壁、遮音板等の設置については、船台において固定的に隔壁を置くことはもちろんのこと、高所作業等を考慮すれば遮音板を設置することも技術面、安全面からみて非現実的であることは明らかであり、また作業者が把持するガスバーナ自体の噴射音を遮音板、隔壁で遮音することは、労働者の安全面、衛生面等諸事情からして、同じく非現実的と言わざるを得ない。
一方、衛生対策に関しては、上告人は昭和二〇年代後半に至り初めて、効果的ともいえる陶製の恩地式耳栓が開発されると同二六年頃より従業員に支給したが(第一審第一四回生島証人二一丁、<証拠>)、亡西垣も船台で作業していた時、陶製の耳栓を支給された旨証言していることから(第一審第三二回西垣本人二〇丁表)、昭和二六年頃恩地式耳栓を貰い受けたものと思われ、原判決が耳栓の支給開始時期を昭和二九年と認定するところは、経験則に違反している。このように上告人は、亡西垣に対し、極めて早い時期から耳栓を支給していたが、耳栓の遮音効果を考えれば、亡西垣の被曝したガスバーナの噴射音は(原判決の認定によれば九〇〜一〇〇ホン)耳栓を装着すれば、許容基準を下回る騒音になるのである。
また、聴力検査についてはオージオメーターを早期から導入し、亡西垣に対し聴力検査を実施していた。このことは、亡西垣の聴力検査データが昭和四〇年から揃っているところからも明らかであり、しかもそれ以降の聴力検査結果と比較して、昭和四〇年以降全くと言っていいほど聴力障害の進行が見られないことからも、上告人の採った措置が適切かつ十分なものであったことが裏付けられている。
なお、耳栓支給以前の船台での就労期間については、まだ耳栓が開発されていない状況であったため、支給する術もなかったし、遮音板や吸収板を設置することが不可能であったことは先述のとおりであるから、もし仮にこの時期の騒音曝露が亡西垣の聴力障害に何らの影響を与えたとしても、それは当時の技術的水準では回避不可能だったのであり、不可抗力と言わざるを得ない。そして、亡西垣に対して配置転換や作業時間短縮といった措置が同人の聴力低下を防止する上で効果を期し得なかったことは、前述のとおりである。
以上論じたところからして、上告人は亡西垣に対し、十分に安全配慮義務を履行したことは明白であり、この点を個別的に検討することなく、上告人の安全配慮義務違反を認定した原判決には、理由不備、経験則違反による法令違背がある。
10 被上告人田野米三郎
原判決は、田野が上告人従業員として就労した昭和一一年一〇月から同二〇年九月の期間、上告人が田野に対して安全配慮義務を負うと判示する(原判決二四六丁裏〜二四七丁表)。しかし、この間については原判決も、「一般的には事業者のみならず労働者においても「耳が遠くなって一人前」という職人的な古い考え方が強い時代であり、ことに造船所、鉱山などの騒音職場においてさえまだ聴力障害の実態調査が試みられていない。騒音性難聴の防止対策としても、作業者が自衛手段として綿栓を用いる程度であり、その他の対策は本格的に行われていなかったのが実情であった」(原判決八七丁裏)と判示するところからも明らかなように、耳栓をはじめとする有効な防音保護具も、聴力検査のためのオージオメーターも開発されておらず、また船舶の建造方法についても、鉸鋲作業が他の接合方法に取って替わられる状況になく、曲げ加工もいまだ線状加熱法が開発されていないような時期で、上告人において騒音対策上採り得る具体的な対策は何ら存在しなかった。その上戦時中は、神戸造船所は海軍の管理下におかれ、上告人が独自の騒音対策を講じることは不可能であった。
したがって、田野の戦前・戦中期における神戸造船所構内での終了に起因すると考えられる聴力障害については、不可効力と言わざるを得ず、この時代田野に対して、上告人が何らの騒音防止対策を講じなかったとして安全配慮義務違反を問責する原判決には、理由不備、理由齟齬の各違法がある。
次に、上告人は、田野が社外工として神戸造船所構内で就労した昭和二六年三月から同二九年四月(松尾鉄工所に在籍)、昭和三〇年一一月から同三二年一〇月(野田浜鉄工所に在籍)及び昭和三二年一一月から同五一年七月(三神合同に在籍)の各期間につき、以下に述べるとおり、なし得る限りの騒音性難聴防止策を講じていた。
すなわち田野は、昭和二六年三月から昭和二九年四月、松尾鉄工所在籍中、神戸造船所山型T棟で就労し、小物部材の背切り作業や切断作業に従事したが、上告人においては当時既に溶接公法を導入し始め、背切り作業を著しく減少させ、同棟の騒音レベルを戦前・戦中期とは比較にならない程減少させたし(第一審第四一回加戸証人七丁裏〜八丁表)、また同人は昭和三〇年一一月から同四一年九月、野田浜鉄工所及び三神合同に在籍中、撓鉄S棟で就労しプレスで荒曲げされた型鋼の曲げ加工、歪取りの仕上げ作業に従事したが、この型鋼の曲げ加工に関しては、被上告人井村正一の項で前述したとおり、従来の熱間加工法から、冷間加工法に変更され、加えてプレスの治具が改良されたことにより、プレスのみでほとんど所定の形状に成形することが可能となり、原判決も認めるように、ハンマー打撃による成形はほとんどなくなったのであり(原判決二四二丁裏)、かつ「この当時、船舶建造法について溶接工法が取り入れられてゆくと、フレームの面を仕上げる必要も大幅に減少し、……騒音は従前より減少した」(原判決二四三丁表)のである。
さらに、先に承継前一審原告横矢役太の項で述べたように、上告人は昭和四一年、一層の環境改善に向けての工場再配置の一環として、騒音レベルのはるかに低い型鋼専門のR棟を新設したが、田野も昭和四一年九月から同五一年七月にかけ、ここで主としてガスバーナーによるフレームの曲げ加工に従事したのである。
なお、田野が右各期間を通じてもっぱら従事したガスバーナーによる曲げ加工・仕上げ作業について、遮音板、隔壁等を設置することは安全衛生面等を考慮すれば不可能であることは容易に察しがつくし、田野に対する耳栓の支給、聴力検査の実施、配転の措置は、同人の雇用主たる三神合同等が行うべき義務であり、この義務も上告人が負うとする原判決には法令の解釈適用の誤りがある。
以上述べたとおり、上告人は、田野に対する安全配慮義務を忠実に履行したものであるにもかかわらず、これらの点を個別的に検討することなく、上告人に右義務違反を問責する原判決には、理由不備、法令解釈適用の誤り、経験則に違反する法令違背がある。
11 被上告人南日輝
南が戦前神戸造船所で就労した間については、被上告人田中太重、承継前一審原告横矢役太、被上告人松田次郎作、同田野米三郎の項でも述べたとおり、戦時中の特殊事情下にあり、上告人が独自の騒音対策を講じることは不可能であり、原判決がこの期間についても上告人に安全配慮義務違反を認めた点には、理由不備、理由齟齬の違法がある。
南は、昭和三一年六月臨時工として入社後、同三五年六月にガス溶接工に職種変更されるまでは罫書作業に従事したが、上告人は原判決認定のとおり、同作業に関して「昭和三一年にモノポール切断機を導入して実用化し、昭和三二年、三三年にも同機を増設した。また昭和三四年にはサーモグラフを導入するなどし」(第一審判決六八八丁表)、罫書作業自体の大半を不要とする作業工程を確立し、さらに「罫書き自体もマーキングペン等を利用し、鋼材表面に直接書き入れる方法が採られるようになったため、ポンチングによる罫書きはほとんど行われなくなった」(第一審判決六八八丁表)のである。この結果、ポンチング等による罫書作業が行われることがあったとしても、それは作業方法・工程上ポンチング等によらざるを得ない場合に極めて限定的に行なわれたにすぎないのであるから、上告人は最大限の音源対策を講じたと言うべきである。
原判決は、鉄構工作課の騒音状況を記載した昭和三七年一〇月の神船時報を根拠に、南の騒音被曝状況を認定しているが、鉄構工作課の職場と造船工場とでは作業場所、使用工具、作業方法、周辺騒音など相違しているのであるから、鉄構工作課の現場での騒音に関する記載をもって、南の騒音被曝状況を認定することは、経験則に違反する法令違背がある。
次に南は、昭和三五年以降はモノポールで、同四〇年以降はガスコンベア上でそれぞれガス切断作業に従事した。上告人は原判決認定のとおり、ガス切断作業に、既に「昭和二六年ころ半自動ガス切断機(IK)を導入」(第一審判決六九〇丁表)するなど、ガス切断作業時に作業者が常時ガス切断機を把持する必要のない工法に腐心したため、作業者が騒音に曝されることも格段に減少した。また、上告人はモノポール自体を遮音壁で覆い、そのガス噴射音の拡散防止を図るなどの措置も講じた(第一審第四五回尾花証人五丁)。なお、作業者が把持するガスバーナ自体の噴射音を遮音壁、隔壁などで遮音することは、労働者の安全面等諸事情からして現実には実施不可能である。
さらに、衛生対策に関しても、上告人は、南が昭和三一年六月臨時工として入社した際に耳栓を支給した。原判決は上告人が南に耳栓を支給したのは、昭和三七、三八年頃と認定するが、南は「モノポールがはいって(昭和三一年)からすぐに」(第一審第二八回南本人六丁裏)耳栓の支給を受けた旨証言しており、具体的事実に結びつく記憶からして、右のとおり南は臨時工として入社した時に耳栓の支給を受けたと考えるのが相当であり、これに反する原判決の認定には証拠によらない理由不備がある。そして、ガスバーナの噴射音は、原判決の認定では九〇〜一〇〇ホン程度とされているが、仮に南がこの程度の騒音を受けたとしても、この程度の騒音は耳栓の装着によって許容基準を下回るのであるから、上告人には衛生対策上も安全配慮義務違反はない。
以上論じたところからして、上告人は南に対し、十分な安全配慮義務を履行したことは明白であり、この点を個別的に検討することなく、上告人の安全配慮義務違反を認定した原判決には、理由不備、経験則の違反による法令違背がある。
12 被上告人前田利次
前田に対して耳栓を支給する安全配慮義務は本来雇用主である三神合同が負うべき義務であり、前田は、神戸造船所入構時に三神合同から耳栓の支給を受けて常時着用していたのである。前田が耳栓を着用しておればガス切断から生じる騒音を許容基準以下に低減させることが可能になるのであるから、これをもって騒音性難聴は十二分に予防できたはずである。したがって、上告人は、これ以上の安全配慮義務を負うものではない。しかも上告人は、ガス切断作業に、ガスバーナだけでなく、ウィゼル、IK、自動切断機といった最新の機械を導入するなど可能な限りの音源対策を講じているのであるから、上告人が安全配慮義務違反を問われる理由はない。また、遮音板、隔壁等の措置は、前田が従事したガス切断作業の内容、鉄板を運ぶクレーンが往来する作業場からみて、安全衛生面、技術面を考慮した場合、非現実的で実施不可能である。さらに、聴力検査は、雇用主である三神合同で実施すべき義務であり、まして前田の聴力検査結果を所持しない上告人が、三神合同の独立性を侵して配置転換等の措置を講ずることはなし得ないことからして、安全配慮義務の内容となり得ない。
以上のとおり、上告人は前田に対する安全配慮義務は確実に履行したのであるから、上告人に右義務違反を認めた原判決には、理由不備、法令の解釈適用の誤り、経験則違反による法令違背がある。
四 不法行為責任
原判決が上告人の行為に違法性を認めたのは、法令の解釈適用を誤ったものであり、また上告人の過失を認定したのは、理由不備、理由齟齬の各違法を犯したものである。
(一) 違法性
原判決の違法性の判断には、法令の解釈適用の誤りがある。
1 原判決は、不法行為の成立につき一般的に、「相当因果関係が是認される場合においては、原告らは、被告の行為によって、その権利(身体・健康)を侵害されたものというべく、右侵害について被告に故意又は過失があるときは、原則として同時に右侵害は違法性を帯びるものと評価すべく、右侵害を正当化すべき事由(違法性阻却事由)が存しない限り、被告は原告らに対し、不法行為を理由として、原告らの被った損害を賠償すべき責任を負担すべきものである」(第一審判決七〇三丁裏)と述べ、本件について「騒音性難聴が聴覚器官に器質的損傷を与え、その結果社会生活上重大な支障・影響を及ぼす疾病の一つであり、人間の最も重要な権利である身体・健康に対する侵害である点をも考え合わせると、後に認定する一審原告らの騒音性難聴が受忍限度内のものとはにわかに認め難く、他に違法性阻却事由が存在しない限り、原告として違法性があるものと解すべきである」(原判決一〇二丁)と判示して、身体・健康に対する侵害は、全て違法性が認められ、それが受忍限度内である場合には、例外的に違法性を阻却すると解している。
しかし、身体・健康に対する侵害を含め、他人の利益に対する侵害行為の全てが不法行為を構成するものではなく、社会的に容認される受忍限度を越えて他人の利益を侵害する行為だけが、違法性を認められ、不法行為に該当するというべきである。すなわち、侵害行為が受忍限度を越えた場合にのみ違法性を構成すると解すべきで、受忍限度を違法性阻却事由とすることは誤りである。
2 この違法性の要素としての受忍限度を判定する場合、加害者側の事情及び被害者側の事情を総合考慮することになるが、その判定の要素として、①原因行為の社会的評価・必要性、②被害発生の回避努力、回避可能性、③原因行為の法令適合性等の加害者側の事情や、④被害の種類・性質・程度の被害者側の事情が挙げられる。さらに、これらの事情に加えて、⑤被害が社会的に容認されていたとか、被害者が損害について承認したとか、被害回避をしなかったとか、危険の存在を知悉しながら敢えてその危険に接近したような被害者側の事情も衡平の見地からして当然受忍限度の判定要素に加えられることになる。
仮に原判決のように、受忍限度を違法性阻却事由と解するとしても、その判定要素は同様である。
これらの諸点を本件について以下検討する。
①被上告人らが騒音に曝露された神戸造船所では、国民生活、産業活動に密接した不可欠な製品を製造しており、神戸造船所で製造してきた製品が社会的に不可欠である以上、原因行為たる製造過程での作業の必要性も十分認められることとなる。②神戸造船所における各種社会的有用品の製造がいずれも素材たる金属の加工によって行われている以上、騒音の発生は不可避であり、問題はいかに騒音レベルを減少させるかであるが、神戸造船所が我が国造船界の最先端の技術工法を駆使して騒音レベルの低減を実現してきたことは、前述のとおりであり、また、耳栓の支給、装着指導、聴力検査の実施、騒音測定の実施等、衛生面においても最新の方法を導入し、騒音性難聴の発生の回避努力を行ってきたことも前述のとおりで、神戸造船所では技術面でも衛生面でも最大限可能な聴力障害発生の回避措置を講じてきたと認められる。③神戸造船所では騒音職場に関する労働安全衛生法や労働安全衛生規則等の法令に従って、作業環境の測定、聴力検査の実施、保護具(耳栓)の備付け着用指導など、従業員の聴力障害防止対策を実施しており、神戸造船所での作業及び騒音対策は法令適合性の面においても問題はない。④被上告人らの聴力損失の程度はほとんど老人性難聴のそれと変わるものではなく、被上告人らが一般の高齢者と比較して、格段に精神的、身体的な苦痛を強いられているというものではないし、騒音性難聴によって直接生命の危険が生じることはない。聴力は健常人であっても加齢によって低下するものであり、しかも、聴力は日常生活を営む上で必要であるとしても、聴力が低下しても完全に喪失するのでなければ、日常生活が可能であり、補聴器の使用によってこれを補うことができるのであるから、被上告人らの身体、健康に被害があるとしても、それは軽微なものと言える(このことは被上告人らが神戸造船所での就労中、上告人又は上告人以外のそれぞれの雇用主に対し、何らの苦情なり不満を申告せず、また聴力障害についての異常及び不便さの報告、相談もなく、定年又は高齢で就労できなくなるまで働き、円満に退職していることをもっても判断されるところである)。⑤被上告人らは、危険の存在を自ら知悉しながら敢えて神戸造船所構内で就労したのであり、これは被害につき承諾して就労したのと同様と評価すべきである。
以上総合すれば、上告人の操業による騒音発生とそれによる被上告人らの騒音曝露と聴力低下は受忍限度内であり、これに違法性を認めることはできない。
3 原判決は「(上告人が)我が国有数の造船会社として、船舶、橋梁等の鉄構製品、ディーゼルエンジン、原動機等社会に有用な製品を製作してきており、また、金属加工の性質上、一定の騒音の発生が不可避であることは前記認定事実から明らかである」(原判決一〇三丁)、「(上告人)が工法の変更及び衛生面の対策において、一定の騒音性難聴の防止作を講じてきたことは前記認定のとおりである」(同一〇四丁)と、上告人の原因行為の社会的評価や必要性、被害発生の回避努力を認めているにもかかわらず、これらの事情を個別的に違法性阻却事由として把握するだけで、違法性や違法性阻却事由たる受忍限度の判断要素とせず、被上告人らの騒音曝露により被った被害の程度を過大視して、上告人の操業による騒音発生を受忍限度を越えた加害行為として、その違法性を肯定しており、原判決には、この点の判断に法令の解釈適用の誤りがある。
(二) 過失(注意義務)
原判決の注意義務の内容の判断には、法令の解釈適用の誤り、理由不備があり、上告人に過失を認めた判断には、経験則に違反する法令違背、理由不備がある。
1 原判決は、「被告は、その構内で就労する労働者の身体・健康に危害(騒音性難聴の発生又は進行)を及ぼさせないように万全の方策をとるべき注意義務を負うものといわなければならず、その注意義務の具体的内容としては、既に第三(被告らの責任)一(四)(安全配慮義務の内容)4と同一の注意義務を負っているものと解すべきである」(第一審判決七〇四丁表)と判断する。
しかし、原判決は、上告人の負う注意義務の具体的内容を安全配慮義務と同一と解しているが、前述したとおり、原判決の判示する安全配慮義務の具体的内容は抽象的、包括的であり、作業時期、作業場所、作業内容、作業環境に則し、上告人が被上告人各人に対して、いかなる具体的な安全配慮義務を負うのか特定しておらず、そのことは上告人の負う注意義務の内容についても同様に何ら具体的内容を示しておらないことに帰結し、原判決には、注意義務の具体的内容に関し、理由不備がある。
しかも、その注意義務の具体的内容を被上告人各人の作業時期、作業場所、作業内容、作業環境に則して主張・立証する責任が損害賠償を請求する被上告人らにあることは、異論がない。しかるに、本件において被上告人らは、注意義務の具体的内容を特定しておらず、不十分な注意義務の特定しかないにもかかわらず、被上告人らの請求を一部認容した原判決には、法令の解釈適用の誤りがある。
2 また原判決は、「一審被告のとった騒音性難聴対策は十分ではなかったのであるから、一審被告には右注意義務を怠った過失があるものといわざるをえない」(原判決一〇二丁表)と判示する。
しかし、上告人の被上告人らに対する不法行為責任を問責するには、被上告人各人の作業時期、作業内容、作業場所、作業環境などの具体的場面に則して各人毎に注意義務が特定されなければならないのは、不法行為の性質上当然のことである。そして、上告人に過失ありとするには、被上告人らが騒音曝露を受けた時代において技術水準、経済的・社会的情勢に応じて当然講ずべき結果回避措置が可能であったにもかかわらず、その措置を怠ったという事実の存在、及びその不履行と被上告人らの聴力障害との間の因果関係の存在が、被上告人各人毎に判断されなければならないが、原判決には、右述べたような点の考慮は全く払われておらず、理由不備がある。
また、上告人が負担する注意義務の内容が技術的・経済的な観点から実施可能であるものでなければならないのは、安全配慮義務と同様であり、その実施可能性は、現在だけでなく、被上告人らが現実に騒音被曝を受け聴力障害を生じた過去の時期においても満たされなければならない。現在の技術水準で可能としても、騒音被曝を受けた過去の技術水準では不可能な場合には、上告人が、当時そのような技術水準を越えた措置を講ずべき注意義務を負担していたということはできず、仮に、上告人がそのような注意義務を履行しなかったとしても、その違反を過失ということはできない。さらに、右実施可能性が法律的にも検討されなければならないことも、安全配慮義務と同様である。特に、上告人は、社外工たる被上告人らに対して法令上健康診断・保護具の支給などの措置義務を負っていないし、それを強制しうる契約上の権限も有しておらず、従業員たる被上告人らと同様の内容の注意義務を上告人が負担していると解することはできない。
これらの点を全く検討することなく、被上告人らに騒音性難聴が生じたことをもって上告人の対策が十分でないとして過失を認めた原判決には、理由不備がある。
上告人が被上告人各人の作業時期、作業内容、作業場所、作業環境などに則して、その時期の最先端の技術を駆使して騒音性難聴の防止に努めていたこと、上告人が採らなかった措置が技術的、経済的、社会的に不可能であったこと、また、その不履行と被上告人らの聴力障害との間に因果関係のないことは、安全配慮義務の履行につき論述したとおりであり、上告人は、騒音低減のための環境改善対策、騒音性難聴防止のための衛生対策等を、その時々に応じて医学的・技術的・経済的にでき得る限りの最善の手段をもって実施してきたのであり、それでもなお残存する騒音について、耳栓等の聴力低下防止措置以上の万全の結果回避義務をも上告人に対する注意義務の内容とすることは、上告人に対して不可能を強いることとなり、それが妥当でないことは明らかである。
この点を失念した原判決の判断には、経験則に違反する法令の違背、理由不備があることは、同項で指摘したとおりである。
五 免責事由
原判決が、上告人の主張した免責事由を認めなかったことは、法令の解釈適用の誤り、経験則違反による法令違背、理由不備、理由齟齬の各違反を犯したものである。
(一) 許された危険
原判決の上告人の「許された危険」による免責の主張を認めなかった判断には、法令の解釈適用の誤りがある。
1 原判決は、上告人が社会的に有用な製品を製作していること、その製作には一定の騒音の発生が不可避であるとしても、「労働者に対し工場騒音による聴力障害発生の危険が存する以上、同被告としてはその危険から労働者の身体・健康を保護すべき義務を信義則上負うべきであって、技術的・経済的にあらゆる可能な方法を用いても……なお残存する騒音は「許された危険」であるとして、その騒音被曝により労働者が被った聴力障害による損害を同被告が賠償する義務を負わないと解することは、労働者の権利を犠牲にし企業の営利を優先させた考え方であり、左袒し難いところである」(原判決一〇三丁表〜一〇四丁表)と説示する。
しかし、原因行為の社会的評価、必要性という観点からみれば、上告人のように国民生活、産業活動に密接した不可欠な製品を製作している場合、その生産活動に伴い生命や身体に重大な損害が発生する場合は特段、そうでない限り生産活動に一定の危険が内在することをもってその生産活動を停止させることは許されない。我が国の法秩序もこのような企業活動を「許された危険」として承認しており、これを禁止したり違法視していないことは明白である。原判決は、企業活動の社会的評価、必要性を過小視して、企業の営利性を過大評価しており、正当でない。
したがって、企業が技術的・経済的に可能な結果回避措置を講じているにもかかわらず、社会的に有用な企業活動による危険が顕在化して何がしかの損害が発生しても、その損害の程度等が被上告人らの聴力障害のように軽微であって、しかも労働者災害補償保険法等によってその損害が填補されているような場合にまで直ちに損害を重大視して債務不履行や不法行為による損害賠償責任を肯定することは誤りというべきであり、判例もこれを認めている(高松高裁昭和五九年九月一九日判決、判例時報一一三二号三一頁)。
以上のように、上告人の生産活動の過程ででき得る限りの騒音防止対策を講じたにもかかわらず、何がしかの騒音が不可避的に発生したとしても、それは右に述べた社会的にも容認された「許された危険」というべきであり、上告人の行為は免責される。
原判決がかかる視点からの考察を欠き、上告人の行為をもって「許された危険」として免責事由としなかった判断には、判例に違背する法令の解釈適用の誤りがある。
(二) 不可抗力
原判決の上告人の不可抗力の主張を認めなかった判断には、理由不備、理由齟齬がある。
1 原判決は、「一審被告が工法の変更及び衛生面の対策において、一定の騒音性難聴の防止策を講じてきたことは前記認定のとおりである」(原判決一〇四丁)としながらも、「それが安全配慮義務ないし注意義務の履行として十分でなかったことは前記説示のとおりであるから、一審原告らに発生した騒音性難聴が不可抗力によるものとはなし難い」(同丁)と判示する。
しかし、上告人は、これまでにも述べたように、環境面、衛生面を含め、各時代になし得る限りの騒音性難聴防止対策を施したのであり、これらの措置にもかかわらずなおかつ騒音性難聴が発生したとすれば、それは不可抗力と言わざるを得ない。原判決が、上告人の負うべき安全配慮義務もしくは注意義務の内容につき、被上告人各人毎に、その作業時期、作業内容等を踏まえ、その実施可能性の検討を加えておらず、それゆえ上告人が各時代において当時の技術水準に鑑み、被上告人各人に対して、いかなる施策を実施すべきであったのかを明らかにすることなく、上告人の騒音性難聴防止対策が十分でないなどと判示しているのは、理由不備である。
2 さらに原判決は、昭和二〇年以前の戦前・戦中という特殊な状況下にあっては「騒音対策の必要性は余り喧伝されておらず、むしろそれどころではなかったといった方がいいような情勢にあったとさえいえる」(原判決一〇六丁裏)と判示しながらも、「およそ人の身体の安全・健康はいかなる時代、いかなる社会的、経済的情勢のもとにおいても最も尊重されるべきものであること、前記検討によると、既に戦前から研究者や関係者の間で労働者の騒音性難聴の防止対策について提言や議論がなされていたにもかかわらず、当時、一審被告において騒音対策あるいは騒音性難聴の防止対策についてほとんど何の配慮も払っていなかったことが窺われること、などに照らして考えると、当時の特殊な状況下では同被告が前記のような安全配慮義務ないし注意義務を履行することは極めて困難であったとはいえ、一審被告の一審原告らに対する右時代の安全配慮義務の不履行あるいは侵害行為が全く不可抗力であって、一審被告の責任を全て免れさせるべきであるとまでは断じ難い」(同一〇七丁)と判示する。
しかし、原判決は、一方で安全配慮義務、注意義務の内容としては、問題とされる時代における技術水準、医学的知見、経済的・社会的情勢に応じて可能な範囲で最善の手段方法をもって実施すべきであると判示しているのであるから(原判決九二丁表、第一審判決七〇四丁表)、戦前・戦中における安全配慮義務、注意義務の内容も右観点から検討を尽くすべきであるのに、抽象的、理念的な理由を挙げるのみで、右観点に照らし、上告人が被上告人らに対していかなる施策を講ずることが相当であったか何一つ具体的に判示しておらない原判決には、理由不備、理由齟齬がある。
したがって、各被上告人について言えば、被上告人田中太重が昭和九年七月から同二〇年八月、同松田次郎作が昭和一六年八月から同一九年頃、同田野米三郎が昭和一一年一〇月から同二〇年九月、同南日輝が昭和一四年四月から同二〇年一〇月(但し、昭和一四年五月から同一六年二月・同二〇年三月から同年一〇月の二回の兵役期間を除く)及び承継前一審原告横矢役太が昭和一五年六月から昭和二〇年、それぞれ上告人の従業員として神戸造船所構内で就労したが、これら各期間に右被上告人らが騒音に曝露され聴力が低下したことは不可抗力であり、右被上告人らの右期間中の騒音被曝につき上告人に責任を負わせることはできない。
(三) 危険への接近
原判決の上告人の「危険への接近」の主張を認めなかった判断には、法令の解釈適用の誤りがある。
1 原判決は、「一審原告らの中には、以前に同被告神戸造船所で稼働した経験から、同被告神戸造船所構内においては一定の騒音があることを知りながら、中には同造船所構内での就労により騒音性難聴に罹患する可能性のあることを認識しながら、再びあるいは何度かにわたって同被告神戸造船所構内で就労するに至った者の存することが認められ(る)」(原判決一〇八丁裏)と判示しながらも、「被害が……社会生活に重大な支障をきたす疾病であることをも考慮すれば、一審原告らがかかる危険をある程度認識しながら、一審被告又は下請企業に就職して、同被告神戸造船所構内で就労したからといって、直ちにその被害を全面的に甘受すべきものとし、不法行為責任に関しては受忍限度内のものとして違法性を欠き、債務不履行責任に関しても安全配慮義務違反にはならないと解することはできない」(原判決一〇九丁)と判断する。
しかし、先にも述べたように聴力が低下しても完全に喪失するのでなければ補聴器の使用により、日常生活は十分可能なのであり、換言すれば職業性難聴は、直接、生命・身体に重大な危険を及ぼすものではなく、生活障害や労働障害の程度からして軽微なものであるにもかかわらず、原判決はこの障害程度を過大視した誤りを犯している。
上告人は労働者の騒音曝露を回避するため、各時代に業界最先端の技術を駆使して、各種工法改善や衛生対策に関して、なし得る限りの措置を講じてきたのである。仮に、かかる措置によってもなお労働者が騒音性難聴に罹患する危険が存在した場合、それを防止する施策の実施が社会的情勢等に照らし、予見できず、もしくは現実的に期待し得ない状況であった場合には、その危険を知りながら敢えて神戸造船所構内で就労し「危険への接近」をした被上告人らは、就労後実際に被った被害の程度が就労時に被上告人らの認識した騒音から予想される被害の程度を明らかに越えたものであるとか、就労後に騒音の程度が格段に増大したとかいうような特段の事情が認められる場合を除き、その被害を受忍すべきであり、不法行為責任については、右被害は受忍限度内の法益侵害によるものとして違法性を阻却され、また債務不履行責任についても、信義則上これ以上の格別の安全配慮義務を要求されないと解すべきである。このような観点での考察をせず、被上告人らの被害を過大視した原判決には、法令の解釈適用の誤り、経験則違反による法令違背がある。
2 被上告人各人の「危険への接近」の事情は次のとおりである。
(1) 被上告人斉木福右衛門
斉木は、昭和三〇年六月松尾鉄工に入社、引続き松尾造船鉄工・光合同に雇用され、いずれも神戸造船所構内で就労したが、同三九年九月光合同倒産により、一旦神戸造船所構内から離脱し、その後同四〇年一月神和工業に入社し、神戸造船所に再入構した。神戸造船所構内で九年余りも就労した後、再入構したことは、危険の存在を知りながら敢えて危険へ接近したことに他ならない。
(2) 被上告人藤本忠美
藤本は、昭和二五年頃一時、近藤鉄工所に入社し、神戸造船所構内で就労し、一旦退社した後、原初鉄工所に入社し、再入構することにより危険に接近し、さらに昭和二八年頃原初鉄工所退職、神戸造船所構内から離脱した後、同三〇年四月宇津原鉄工所に入社して神戸造船所に再入構して、再度危険に接近している。
(3) 被上告人田中太重
田中は、昭和九年一〇月から神戸造船所で本工として勤務し、同二〇年八月退職により神戸造船所から離脱したが、昭和二五年七月金川造船に入社し、神戸造船所に再入構した。神戸造船所構内で一一年も就労した後、再入構したことは、危険の存在を知りながら敢えて危険へ接近したことに他ならない。
(4) 承継前一審原告佐々木次郎
亡佐々木は、昭和九年から同二〇年九月まで及び同二三年から同三一年頃まで川崎重工業に在籍し、あるいは同社の構内下請である桑畠工業で勤務し、川崎重工業構内で就労した後、昭和三一年三月富士産業に入社して神戸造船所に入構した。川崎重工業と神戸造船所は同種の作業環境であり、神戸造船所入構に際して当然危険の存在を了知した上で、敢えて危険に接近したのである。
(5) 承継前一審原告横矢役太
亡横矢は、昭和一五年六月から神戸造船所に在籍しており、同二三年には自ら聴力障害を自覚しているにもかかわらず、同三八年五月に神戸造船所を退職後、危険の存在を知りながら、同年六月三神合同に入社して、引続き神戸造船所構内で就労を続けたのは危険への接近に他ならない。
(6) 被上告人高橋一雄
高橋は、昭和二四年一〇月から同二九年六月まで神戸造船所日雇及び臨時工として神戸造船所構内で就労し、一旦退社した後、松尾鉄工に入社し、再入構することにより危険に接近し、さらに、松尾鉄工退職後、同三〇年一二月金川造船に入社して神戸造船所に再入横して、再度危険に接近している。
(7) 被上告人松田次郎作
松田は、昭和一六年八月より同一九年頃まで神戸造船所臨時工あるいは徴用工として勤務して騒音状況など危険を了知した上で、同二一年一月神戸造船所に本工として再入社したが、これは危険への接近に他ならない。
(8) 承継前一審原告西垣兀
亡西垣は、昭和二四年八月から同年一一月まで金川造船に入社し、神戸造船所構内で就労しており、神戸造船所構内の騒音状況等の危険を了知しながら同年一二月神戸造船所臨時工(後に本工)として勤務するようになったのは危険への接近に他ならない。
(9) 被上告人田野米三郎
田野は、昭和一一年一〇月から同二〇年九月三日まで本工として神戸造船所構内で就労しており、その後、同二六年三月松尾鉄工所に入社し神戸造船所に再入構した。神戸造船所構内で九年弱も就労した後、再入構したことは、危険の存在を知りながら敢えて危険へ接近したことに他ならない。
(10) 被上告人南日輝
南は、昭和一四年四月から同二〇年一〇月まで本工として神戸造船所で就労し、一旦、退職した後、同三〇年九月鈴木工業所に入社し神戸造船所に再入構した。神戸造船所で六年余りも就労した後、再入構したことは、危険の存在を知りながら敢えて危険へ接近したことに他ならない。
第三点 時効
原判決は、時効の判断に関し、以下に述べるとおり、理由不備、理由齟齬並びに判決に影響を及ぼすこと明らかな法令の違背がある、この誤りは正されなければならない。
一 聴力障害の進行と時効の起算点
原判決は、一〇年進行停止説(第一点、二、参照)に対し、「基本的には騒音性難聴を生ぜしめるような騒音(耳栓等による減衰効果を考慮したもの)が継続する限り、聴力低下の進行が完全に停止するものとまで断定できない」(第一審判決七〇五丁表)と認定し、騒音曝露開始後一〇年をもって時効の起算点とすべきであるとの上告人の主張をしりぞけている。しかしながら、かかる判示には、次のとおり、経験則違反並びに判断脱漏及び理由不備の法令違背がある。
(一) 一〇年進行停止説を否定する根拠として、原判決が取り上げた<証拠>その他に示された見解の趣旨は、次のとおりである。
1 <証拠>(新労働衛生ハンドブック・渡部真也執筆)では、「聴力損失の進展の様相は図(略)のように、曝露後数年のうちに急速に進行し、約一〇年のうちにその人に起こしうる障害をほとんど起こしてしまう」(七二八頁)としている。なお、同<証拠>に引用してある聴力損失進展の一例を示す図(山本剛夫の調査によるもの)によると、二五〇ヘルツ及び五〇〇ヘルツの実聴力損失値(加齢要素を除いたもの)は一〇年を経過すると損失程度が相当鈍化するがなお進行し、ほぼ二〇年を経過すると低下が止まるように示されており、また、一〇〇〇ヘルツ、二〇〇〇ヘルツ及び四〇〇〇ヘルツでも低下の程度は鈍化するものの、三〇年を経ても損失は進行するように示されており、また、高周波音域ほど損失が長期間進行するものとされているけれども、これはこのような事例も例外的にあることを示すに過ぎず、一般には一〇年で停止することを否定するものではない。
また、<証拠>中に引用されている「騒音作業年数別聴力損失程度」(労働省の調査によるもの)によれば、経験年数が大になるほど損失程度も大となり経験年数一〇〜一五年のグループよりも一五〜二〇年のグループが、一五〜二〇年のグループよりも二〇年以上のグループが、それぞれ損失程度が大であることを示す調査結果が示されているけれども、加齢要素は除かれておらず、加齢による生理的な聴力損失を考えれば、むしろ騒音曝露による聴力損失の進行は停止することを認め得る資料である。
<証拠>(第一審判決六四二丁裏)も、聴力損失の進展の仕方は個人的に多様な経過をたどるものであるとするけれども、一般には騒音性難聴の進行は一〇年で停止することを前提として、例外的にそれ以降も進行する事例があり得ることを指摘するにとどまると理解すべきである。
2 <証拠>(「造船所音響の聴器に及ぼす影響に就ての臨牀的研究」草川一正)には、オージオメーターによる聴力検査の結果、「一〇年以上になると聴力障碍を惹起しやすい原因、素質の如何に拘わらず、殆ど一様に可聴域全域に亘って、損失の最大限に達した感ある聴力像を示すに至り」(七五三、七五五頁)と指摘してある。なお右検査の結果は、①一年未満、②一〜四年、③五〜九年、④一〇年以上の四グループに分けて示されているにとどまり、一〇年以上の者の中でのグループ分けはされておらず、一〇年以上を更に分類した他の検査では、一〇年以上でも経年者の方が聴力が低下していると見得る結果も示されているけれども、これもかような事例もあり得ることを示したにとどまり、むしろ一般的には一〇年で進行が停止することを示した資料として理解されるべきである。
3 <証拠>(「難聴の診断と治療」立木孝)では、多くの資料によると、勤務年数の増加とともに騒音性難聴の発生率も、その程度も増加しているが、金属鉱山従業員について勤務年数に年齢を加味した調査によってみると、「音響による障害は、騒音曝露開始後の比較的早期に発生し、進行する。その後の進行は一般に加齢による生理的な聴力損失とほとんど同じペースである」(六五頁)と指摘する。
4 <証拠>(「騒音性難聴」川口洋志)によると、四〇〇〇ヘルツの損失値について「就業後一〇年間の聴力変化と、それ以降一〇年間の聴力変化を較べると、後半一〇年間の聴力損失は数値的に二デシベルである。また就業後五年とその後五年間での変化は一デシベルである。このことより就業後一〇年までの間に難聴は完成してしまうものと考えられる。すなわち、騒音による難聴は就業後比較的短期間(就業後約五年間)のうちに急激に起こり、その後は非常に緩慢か停止したような状態になるものと考えられる」と指摘する。
5 さらに、<証拠>(「騒音性難聴の発生と伝音性難聴」志多享ほか)は、「同一騒音職場での就業年数と騒音性難聴進展との関係をみると、四〇〇〇ヘルツの聴力損失に関する限り就業一〇年までは経年的に平行して増大するが、一〇年をこえると、以後の聴力損失は年齢因子を加味して較正すればほとんど進行しなくなる」(一九四頁)と指摘する。
もっとも、証人志多享は、「大体一五年から二〇年までは聴力損失が進むが二〇年を越えると騒音の影響だけでは進まない」(第一審判決六四四丁)と証言しているけれども、そのような事例もあることを指摘するにすぎない。
6 <証拠>(「強大騒音の質的量的評価」山本剛夫)では、「四〇〇〇ヘルツのNIPTS(永久的聴力損失)については、曝露年数一〇年と四〇年との間に差を認め得ないとする資料がある」(七頁)とされている。もっとも「その他のテスト周波数については、曝露年数一〇年以降もNIPTSは若干増加するようであり、ことにNR数が九五で、テスト周波数が二〇〇〇ヘルツの場合曝露年数が一〇年と四〇年のときとでは、両者間のNIPTSの差は三〇デシベルにも達している」(同頁)ともするけれども、加齢による生理的な聴力損失の影響が不明であり、そのまま一〇年進行停止説を否定する資料たり得ない。
7 <証拠>(外科全書抜粋「音響性外傷」)は、「同一騒音職場での就業年数と騒音性難聴進展との関係をみると、四〇〇〇ヘルツの聴力損失に関する限り就業一〇年までは経年的に平行して増大するが、一〇年をこえると、以後の聴力損失は年齢因子を加味して較正すればほとんど進行しなくなる。騒音の質量ともに異なる四つの各騒音環境下での四〇〇〇ヘルツ聴力損失値と就業年数との関係を年齢因子を較正してみると、各職場とも一〇年をこえると聴力推移は水平となり、聴力損失値はほぼ一定となる」(八三、八四頁)と指摘する。もっとも「とくに騒音のレベルが強大である場合、低音域への聴力損失波及が経年的に著明で、五〇〇、一〇〇〇、二〇〇〇ヘルツの聴力損失増大は、たとえ年齢因子を較正しても有意の差がある」(八四頁)とするが、通常の騒音職場とは異なる特に強大な騒音環境下での事例の報告であるから、一般に一〇年で進行が停止することを否定するものではない。
右証拠を総合すれば、騒音曝露開始後一〇年を経ても聴力障害の進行が完全に停止しない症例も極く稀には存在するが、その進行の原因が騒音なのか、それとも他の要因(加齢、他疾患等)なのかという点については何ら解明されていない状況であって、一〇年進行停止説が医学上の通説であることは明らかである。にもかかわらず、原因不明の稀少例の報告を基に一〇年進行停止説に基づく時効の進行を否定した原判決の認定は、証拠の解釈を誤っており、経験則違反の法令違背があると言わざるを得ない。
したがって、ある被上告人につき、騒音曝露開始後一〇年を経過してもなお聴力障害が進行し続け、その原因として加齢や他疾患では説明し得ないような明らかな証拠が存する場合は格別、そうでない以上は、騒音曝露開始後一〇年経過時をもって、騒音性難聴の固定時とみなし、消滅時効の起算点とすることが相当である。
(二) さらに、上告人は、原審において、仮に騒音曝露開始後一〇年をもって騒音性難聴の進行が停止しないとしても、損害賠償請求権としては一〇年経過時に確定していると見るべきである旨の主張を行ったが、原判決は、この点について何の判断も下しておらず、判断脱漏による理由不備の違法があると言わざるを得ない。
ここで敢えて上告人の主張を繰り返せば、次のとおりである。
すなわち、仮に、原判決のように、騒音被曝開始後一〇年を経過しても聴力低下が完全に停止するとまで断言できないとの見解に立ったとしても、騒音被曝開始後一〇年間にほとんどの聴力低下が発生し、一〇年経過後の進行は微々たるものであり、この程度の増悪は、被上告人らの聴力障害の程度からして労働や生活の支障に関してさして影響を与えるものでなく、医学上の聴力障害の進行は別として、法律上請求しうる金銭債権としての損害額は一〇年で固定していると考えるべきである。したがって、いずれの見解をとったとしても、本件における被上告人らに対する損害の発生時期としては、騒音被曝開始後一〇年間に限って考えても不都合はない。
そこで、不法行為については、それ以降に認識した時はその時から、それ以前に聴力障害を認識した時は遅くとも騒音被曝開始後一〇年から時効が進行することになる。
債務不履行に関する時効の起算点としては損害賠償義務は本来の債務の内容が変更されたにとどまり、その債務の履行を請求し得る時から進行するとの通説判例の立場に立つ場合には、職業病による損害賠償義務については本来の安全配慮義務の履行を請求し得る時となるのであるが、騒音性難聴は、騒音被曝開始後一〇年で聴力障害の進行が停止し、損害が確定するのであるから、その時点で安全配慮義務違反による現在の損害が確定し、現在の内容の損害賠償請求権が成立すると同時に、それ以降の安全配慮義務違反は現在の確定した損害と因果関係を持たないから、騒音被曝開始後一〇年をもって時効の起算点となし得るのである。
二 中途退職時の時効の起算点
被上告人らの中には、下請工又は従業員として神戸造船所構内で一定期間就労した後一旦退職し、その後再び下請工又は従業員として神戸造船所構内で就労するに至った者が少なくないが、これらの場合に、中途退職以前に生じた損害について各別に時効が進行するか否かの点につき、原判決は、「中途退職以前の債務不履行に基づく賠償請求権の時効は右中途退職の時点から進行する」(第一審判決七〇五丁裏)としたものの、他方、「不法行為に関しては、数年間一審被告神戸造船所構内を離れていたような場合……は別として、数か月のように、比較的短い期間一審被告神戸造船所構内を離れた後再び一審被告神戸造船所構内で就労し、再び騒音を受けたような場合には、不法行為としては断続的にではあっても全体として継続し、最終的に騒音職場を離れた時点で終了するものと解すべきであり、また被害者たる一審原告が損害を知ったときも、右騒音職場を最終的に離れ、症状が固定したときと解するのが相当である」(同七〇五丁裏〜七〇六丁表)と判示する。
しかしながら、この判旨は、次に述べるとおり、明らかに民法七二四条の解釈適用の誤りを犯している。
(一) 不法行為の断続性
本件訴訟における不法行為とは、上告人が被上告人らを騒音性難聴に罹患させないような注意義務に違反したことであり、さすれば、不法行為の断続性を判断するに当たっては、まず何よりも、その注意義務の内容の同一性、継続性が検討されなければならない。
第二点でも述べたとおり、上告人が被上告人らに対して負っている注意義務の内容は、被上告人らの作業場所、作業内容、雇用形態、年代等によって異なるのであり、事実、次に示すとおり、中途退職の前後を比較して、これらの点で大きく異なる被上告人らが多いのである。
1 被上告人斉木福右衛門
斉木は、昭和三〇年六月から同三九年九月まで松尾鉄工(後の光合同)で、昭和四〇年一月から同四〇年八月までは神和工業で、昭和四一年一月以降は三神合同で、それぞれ撓鉄作業に従事した。右各期間の作業内容は、撓鉄作業という点では一貫しているものの、昭和四一年一月以降の三神合同時代は、「ボーシンとして作業者の出欠の点検、配置、供給に関する仕事に携わるようになった」(原判決一一九丁表)のであり、一作業者としての松尾鉄工、神和工業時代と、監督的立場に立つ三神合同時代とでは、上告人の負うべき注意義務の内容は自ずと異なるというべきである。
2 被上告人藤本忠美
藤本は、昭和二五年頃から同二六年まで近藤鉄工所、昭和二六年から同二八年まで原初鉄工所、昭和二九年六月から同三二年一〇月まで字津原鉄工所、そして昭和三二年一一月から同五一年九月まで三神合同に在籍し、神戸造船所構内で就労した。右各期間の藤本の作業内容を検討すると、近藤鉄工所時代は船台等で中ハンマー、ジャツキ等を用いて外板取付作業、原初鉄工所時代は亜鉛の溶解釜の修繕や煙突の溶接作業等、三神合同時代は定盤や船台でのブロックの溶接作業、といったように、それぞれの中途退職前後で、作業場所、作業内容に明らかな相違が見られるのである。
3 被上告人田中太重
田中は、戦前約一一年弱の間、上告人神戸造船所の臨時工及び本工として同所構内で就労した。戦後は、昭和二五年七月金川造船入社、同二七年一二月退社、昭和二八年七月同社再入社、同二九年一月退社、昭和三〇年七月同社再々入社、昭和三二年一〇月退社、昭和三二年一一月三神合同入社、同三四年八月退社、昭和三五年一一月同社再入社と、再三再四退構を繰り返しているが、戦前の就労部分について消滅時効が成立していることは原判決も認めるとおりである。一方、戦後の就労部分についても、昭和二九年一月までは船台及びその周辺での穴明け作業を行っていたのに対し、昭和三〇年七月から同三二年一〇月までの期間は船台から離れた鉄構課F棟、G棟等で穴明け作業を行っており、作業場所に明らかな変化が見られる(船台での騒音程度と鉄構課での騒音程度に相当の差異があることは原判決も認めている)し、また昭和三二年一〇月に金川造船を退社後同三二年一一月に三神合同に入社しているが両者を比較するとその規模、作業態様等について大きな相違があり、さすれば、これらの期間を通じて、注意義務の内容が同一であると到底解し得ない。
4 承継前一審原告佐々木次郎
亡佐々木は、昭和三一年三月から同三五年六月まで神和工業で電気溶接作業に、昭和三六年一月から同五〇年一二月まで東亜外業で電気溶接作業に従事した。この中途退職の前後を比較すると、確かに電気溶接作業という意味では共通性があるものの、雇用主が変わったことにより、作業態様にはかなりの相違がある。例えば、使用工具の点では、神和工業時代はある程度上告人から貸与されていたが、東亜外業では全て自社所有の工具を用いていたし、作業指揮の点でも、東亜外業時代は上告人が亡佐々木に対して指揮命令を行うことは全くなかった。また、東亜外業は、ある一定の区域の溶接を一括して請け負う方式をとっていたため、上告人の従業員らとの混在も全く生じなかったのである。さらに加えれば、亡佐々木は神和工業退職後、東亜外業に就職するまでの間、桑畠興行(川崎重工下請)で就労しており、かかる状況において、上告人の不法行為が継続するとは到底考えられない。
5 承継前一審原告横矢役太
亡横矢は、昭和三八年五月までは上告人神戸造船所に雇用され、同所構内で就労し、昭和三八年六月以降は上告人の下請会社である三神合同に在籍し、神戸造船所構内で就労している。上告人と直接の雇用関係を有する中途退職前と下請会社の一従業員となった中途退職後とでは、上告人の負う注意義務の内容に差異があることは言うまでもない。
6 被上告人高橋一雄
高橋は、「少しでも給料の高い働き口を求めて、一審被告の日雇いから同被告の構内下請である松尾鉄工、金川造船、嶋産業、山陽工業、三協工業へと転々と勤務先を変え」(原判決二〇一丁裏)ている。各就労時期毎にそれぞれ作業場所等が徐々に変遷しているが、とりわけ、昭和四三年七月の山陽工業退職前は船台、定盤等で歪取り作業に従事したのに対し、昭和四五年一〇月に三協工業入社後は鉄構工作課SG棟等の構内での作業に従事しており、その作業環境、騒音状況は大きく変わっている。さらに言えばこの中途離脱期間は二年二か月もの長期に及び、しかもこの間に神戸造船所構外の近藤工業所で就労し騒音曝露を受けていたのであるから、その前後を通じ上告人の不法行為が継続していると解する余地は全くない。
7 被上告人松田次郎作
松田は、昭和一六年八月に上告人神戸造船所に入社し、一旦同一九年に退社した後、昭和二一年一月に再入社しているが、この中途退職の前後で作業内容が異なっている。すなわち、戦前は板撓鉄と呼ばれる外板の曲げ加工等の作業に従事したが、戦後は型撓鉄と呼ばれる型鋼の曲げ加工作業に従事した。前者はバーナーで加熱した鉄板をハンマーで打撃して曲げるという工法であったのに対し、後者は型鋼を炉で焼いてスキーザー(横押しプレス)で押し曲げるという工法であり、工法の点で明らかな相違がある。
さらに、中途退職前は戦時体制下という未曾有の特殊状況下にあったことを鑑みると、平時に戻った再就職後とでは、上告人の講ずべき又は講ずることのできる注意義務の内容はおのずと大きく異なるのである。
8 被上告人井村正一
井村は、昭和三一年七月までは上告人の下請会社である金川造船に在籍し、昭和三一年七月以降は上告人神戸造船所の臨時工又は本工として、神戸造船所構内で就労している。下請会社の一従業員であった中途退職前と上告人と直接の雇用関係を有する中途退職後とでは、上告人の負う注意義務の内容に差異があることは言うまでもない。
9 承継前一審原告西垣兀
亡西垣は、昭和二四年八月から同年一一月まで金川造船で就労し、その後昭和二四年一二月から上告人神戸造船所の臨時工となっが、金川造船時代は当然上告人と亡西垣との間に雇用関係は存在せず、指揮命令が行われることもなかった。さすれば、臨時工(その後本工)として上告人と直接の雇用関係に入った昭和二四年一二月以降とでは、上告人の負うべき注意義務の内容に大きな相違があることは言うまでもない。
10 被上告人田野米三郎
田野は、昭和二〇年九月まで上告人神戸造船所の本工として、昭和二六年三月から同二九年四月までは松尾鉄工所、昭和三〇年一一月から同三二年一〇月までは野田浜鉄工、昭和三二年一一月以降は三神合同に在籍して、神戸造船所構内で就労した。この内、昭和二〇年九月以前の損害賠償請求権が既に時効消滅していることは原判決も認めるとおりであり、また、昭和二九年四月に松尾鉄工所を退職後一年七か月もの間神戸造船所構内を離脱しているが、この時期は工法が著しく改善されつつあった時代と符合しており、昭和三〇年一一月に再入構した時には、騒音状況も著しく改善されていたと見るべきであって、当然、不法行為も継続しない。
11 被上告人南日輝
南は、昭和二〇年一〇月まで上告人神戸造船所の本工として、昭和三〇年九月から同三一年四月まで鈴木工業所に在籍して、昭和三一年六月以降は上告人神戸造船所の臨時工又は本工として、神戸造船所構内で就労したが、昭和二〇年一〇月以前の損害賠償請求権について消滅時効が完成していることは原判決も認めるとおりである。昭和三一年四月の中途退職前後を比較しても、以前は上告人の下請会社の一従業員であったのに対し、以降は上告人神戸造船所に直接雇用されているのであり、上告人の負うべき注意義務の内容にも、自ずと差異があると言うべきである。
右述べたところから、中途退職の前後で注意義務の内容が大きく異なることは明らかであり、不法行為が継続するとは解し得ない。にもかかわらず、これらの点を検討することなく安易に不法行為の継続を認めた原判決には、判断脱漏、理由不備の違法がある。
また、原判決は、不法行為の断続性を判断するのに際し、離脱期間が数年ならば不法行為が断絶し、数か月ならば不法行為が継続する旨判示する(実際には二年二か月でも継続すると認定している)が、何故そのような時間的中断が要求されるのか、あるいは何故数か月では継続し数年では断絶するのか、その期間の根拠は何か、といった点について、何ら理由が示されておらず、理由不備の違法があると言わざるを得ない。
(二) 損害を知りたるとき
第一点でも述べたとおり、騒音性難聴は、騒音被曝が止めばその時点から完全に進行が停止するものである。
したがって、一旦退職した被上告人らに、その中途退職以前の不法行為により生じた聴力障害は、その中途退職の時点で固定しており、当然損害も確定していることになる。すなわち、中途退職時に既に聴力障害の自覚があれば、その時が「損害及び加害者を知りたる時」に該当し、また中途退職後に聴力障害を自覚した場合は、その自覚時期が「損害及び加害者を知りたる時」に該当する。
原判決は、時効の判断に際し、右騒音性難聴の病理及び被上告人の自覚時期の重要性を殊更に看過するという誤りを犯し、もって民法七二四条の解釈適用を誤っている。
三 総括
右一及び二で述べたところから、本件訴訟においては、時効は次のように判断されなければならない。
(一) 債務不履行に関する時効は、神戸造船所における騒音被曝開始後一〇年経過時もしくは騒音職場離脱時のいずれか早い方より進行する。
(二) 不法行為に関する時効は、
1 神戸造船所における騒音被曝開始後一〇年経過時若しくは騒音職場離脱時のいずれか早い方から二〇年を経過した時
2 騒音被曝開始後一〇年経過し若しくは騒音職場を離脱し、かつ、被上告人ら本人が聴力障害を自覚した時点から三年を経過した時
のいずれか早い方をもって完成する。
(三) 中途退職の場合、中途退職以前の債務不履行及び不法行為に関する時効は中途退職の時点から進行する。
四 各論
三、総括で述べたところから、各被上告人について次のとおり時効が成立している。
(一) 被上告人斉木福右衛門
1 債務不履行に関する時効は、神戸造船所における騒音被曝開始後一〇年経過時、すなわち昭和四一年三月が起算点となり、昭和五一年三月には完成している。
2 不法行為に関する時効は騒音被曝開始後一〇年を経過し、かつ、斉木が聴力障害を自覚した昭和四三、四年が起算点となり、昭和四七年中には完成している。
3 斉木は、昭和三九年九月光合同を退職後神和工業に入社するまで約四か月間、さらに同四〇年八月同社を退職後三神合同に入社するまで約五か月間、神戸造船所構内を離脱しており、これら以前に生じた損害については、独立して時効が進行する。
(二) 被上告人藤本忠美
1 債務不履行に関する時効は、神戸造船所における騒音被曝開始後一〇年経過時、すなわち昭和三六年頃が起算点となり、昭和四六年中には完成している。
2 不法行為に関する時効は、騒音被曝開始後一〇年を経過し、かつ、藤本が聴力障害を自覚した昭和四二、三年が起算点となり、昭和四六年中には完成している。
3 藤本は、昭和二八年原初鉄工所を退職後宇津原鉄工に入社するまで約一年六か月間、さらに同三二年一〇月同社を退職後三神合同に入社するまでの間神戸造船所構内を離脱しており、これら以前に生じた損害については、独立して時効が進行する。
(三) 被上告人田中太重
1 債務不履行に関する時効は、神戸造船所における騒音被曝開始後一〇年経過時、すなわち昭和一九年七月が起算点となり、昭和二九年七月には完成している。
2 不法行為に関する時効は、騒音被曝開始後一〇年を経過した昭和一九年七月が起算点となり、昭和三九年七月には完成している。また田中は、どんなに遅くとも昭和三五年には聴力障害を自覚していたのであるから、これを起算点としても、昭和三八年中には時効が完成している。
3 田中は、昭和二七年一二月から六か月余、昭和二九年一月から約一年六か月間、それぞれ金川造船を一時退職し神戸造船所構内を離脱している。また、昭和三二年一〇月に金川造船を退職し三神合同に入社するまでの間、及び昭和三四年八月に三神合同を一旦退職してからの約一年三か月間、それぞれ神戸造船所構内を一時離脱している。これら以前に生じた損害については、独立して時効が進行する。
(四) 承継前一審原告佐々木次郎
1 債務不履行に関する時効は、神戸造船所における騒音被曝開始後一〇年経過時、すなわち昭和四一年一〇月が起算点となり、昭和五一年一〇月には完成している。
2 不法行為に関する時効は、騒音被曝開始後一〇年を経過し、かつ、亡佐々木が聴力障害を自覚した(遅くとも)昭和四四年頃が起算点となり、昭和四七年中には完成している。
3 亡佐々木は、昭和三五年六月神和工業を退職後三協工業に入社するまで約六か月間神戸造船所構内を離脱しており、これら以前に生じた損害については、独立して時効が進行する。
(五) 承継前一審原告横矢役太
1 債務不履行に関する時効は、神戸造船所における騒音被曝開始後一〇年経過時、すなわち昭和二五年六月が起算点となり、昭和三五年六月には完成している。
2 不法行為に関する時効は、騒音被曝開始後一〇年を経過した昭和二五年六月が起算点となり、昭和四五年六月には完成している。また亡横矢は、どんなに遅くとも昭和三三年には聴力障害を自覚しているのであるから、これを起算点としても、昭和三六年中には時効が完成している。
3 亡横矢は、昭和三八年五月上告人神戸造船所を退職し、その後三神合同に入社しており、この中途退職以前に生じた損害については、独立して時効が進行する。
(六) 被上告人高橋一雄
1 債務不履行に関する時効は、神戸造船所における騒音被曝開始後一〇年経過時、すなわち昭和三五年五月が起算点となり、昭和四五年五月には完成している。
2 不法行為に関する時効は、騒音被曝開始後一〇年経過時に高橋は既に聴力障害を自覚していたのであるから、これが起算点となり、昭和三八年五月には時効が完成している。
3 高橋は、昭和二九年六月に日雇いを、昭和三〇年一二月に松尾鉄鋼を、昭和三二年一〇月に金川造船を、昭和三九年九月に三神合同を、昭和四二年六月に嶋産業を、そして昭和四三年七月に山陽工業をそれぞれ退職している。これら以前に生じた損害については、独立した時効が進行するから、債務不履行に関しては昭和四二年六月以前の部分につき、不法行為に関しては昭和四三年七月以前の部分につき、時効が完成している。
(七) 被上告人松田次郎作
1 債務不履行に関する時効は、神戸造船所における騒音被曝開始後一〇年経過時、すなわち昭和三〇年頃が起算点となり、昭和四〇年中には完成している。
2 不法行為に関する時効は、騒音被曝開始後一〇年を経過した昭和三〇年頃が起算点となり、昭和五〇年中には完成している。また松田は、どんなに遅くとも昭和四八年には聴力障害を自覚していたのであるから、これを起算点としても、昭和五一年中には時効が完成している。
3 松田は、昭和一九年に上告人神戸造船所臨時工を退職後、戦後再入社するまで一年余の間神戸造船所構内を離脱しており、これら以前に生じた損害については、独立して時効が進行する。
(八) 被上告人井村正一
1 債務不履行に関する時効は、神戸造船所における騒音被曝開始後一〇年経過時、すなわち昭和四一年一月が起算点となり、昭和五一年一月には完成している。
2 不法行為に関する時効は、騒音被曝開始後一〇年経過時に井村は既に聴力障害を自覚していたのであるから、これが起算点となり、昭和四四年一月には時効が完成している。
3 井村は、昭和三一年七月金川造船を退職し、その後上告人神戸造船所に入社しており、この中途退職以前に生じた損害については、独立して時効が進行する。
(九) 承継前一審原告西垣兀
1 債務不履行に関する時効は、神戸造船所における騒音被曝開始後一〇年経過時、すなわち昭和三四年一二月が起算点となり、昭和四四年一二月には完成している。
2 不法行為に関する時効は、騒音被曝開始後一〇年を経過し、かつ亡西垣が聴力障害を自覚した昭和四〇年が起算点となり、昭和四三年中には時効が完成している。
3 また、証拠上からも、亡西垣の聴力障害が昭和四〇年の時点で固定していたことは明らかであり、その時既に難聴の自覚があったことは原判決も認めるところである(二三四丁裏、二三六丁表)が、この時点を時効の起算点としても、債務不履行責任については昭和五〇年中に、不法行為責任については昭和四三年中には時効が完成している。
4 亡西垣は、昭和二四年一一月に一旦金川造船を退職し、その後上告人神戸造船所の臨時工として神戸造船所に再度入構しているが、この中途退職以前に生じた損害については、独立して時効が進行する。
(一〇) 被上告人田野米三郎
1 債務不履行に関する時効は、神戸造船所における騒音被曝開始後一〇年経過時、すなわち昭和二七年五月が起算点となり、昭和三七年五月には完成している。
2 不法行為に関する時効は、騒音被曝開始後一〇年を経過し、かつ田野が聴力障害を自覚した昭和四〇年が起算点となり、昭和四三年中には時効が完成している。
3 田野は、昭和二〇年九月に上告人神戸造船所を退職後昭和二六年三月に松尾鉄工に入社するまでの間、昭和二九年四月に同社退職後昭和三〇年一一月に野田浜鉄工所に入社するまでの間、及び昭和三二年一〇月に同社退職後三神合同に入社するまでの間、それぞれ神戸造船所構内を一次離脱しているが、これら以前に生じた損害については、独立して時効が進行する。
(一一) 被上告人南日輝
1 債務不履行に関する時効は、神戸造船所に於ける騒音被曝開始後一〇年経過時、すなわち昭和三六年頃が起算点となり、昭和四六年中には完成している。
2 不法行為に関する時効は、騒音被曝開始後一〇年を経過し、かつ南が聴力障害を自覚した昭和三八年が起算点となり、昭和四一年中には時効が完成している。
3 南は、昭和二〇年一〇月に上告人神戸造船所を退職後昭和三〇年九月に鈴木工業所に入社するまでの間、及び昭和三一年四月に同社退職後昭和三一年六月に上告人神戸造船所に入社するまでの間、それぞれ神戸造船所構内を一次離脱しているが、これら以前に生じた損害については、独立して時効が進行する。
(一二) 被上告人前田利次
前田は、昭和三六年四月から同三九年五月まで要工業、同三九年五月から同四〇年九月頃まで高市工業所にて就労し、同四一年一月から同五一年一二月まで三神合同で就労している。したがって、不法行為に関する時効は、騒音被曝開始後一〇年を経過し、かつ前田が聴力障害を自覚した昭和四七年が起算点となり、昭和五〇年中には時効が完成している。
第四点 損害
以上詳述したところから明らかなとおり、被上告人らの聴力障害と神戸造船所での就労との間には因果関係はなく、上告人には責任も認められないため、原判決は取消されるべきものである。
仮に百歩譲って、被上告人らの聴力障害と神戸造船所での騒音被曝との間に因果関係があり、また上告人に責任があるとしても、被上告人らの聴力障害それ自体、慰謝料の賠償を求め得るようなものでないし、さらに何がしかの損害が存在したとしても、原判決は、被上告人らに支払われるべき慰謝料を算定するに当たり、理由不備、理由齟齬、判決に影響を及ぼすこと明らかなる法令の違背を犯しており、この誤りは正されなければならない。
一 損害の評価基準
原判決は、被上告人各人の慰謝料を算定する基礎となる聴力損失値として六分法による労災認定値を採用した点は、判断脱漏による理由不備、経験則違反、採証法則違反の各違法がある。
(一) 上告人は経験則(医学的知見)上、慰謝料を算定するに当たって基礎となる被上告人らの聴力損失値は、次の四つの基準によるべきである旨主張した(上告人の原審最終準備書面五四丁〜五七丁)。
①純音聴力検査成績は、会話の聴取能力を最も正確に反映する四分法の数値で評価すること。
②会話の聴取能力を直接的に調べる方法とされている語音聴力検査成績を評価すること。
③時期が異なる聴力検査成績については最良のデータで評価すること。
④左右いずれかの良い聴力を基準に評価すること。
しかし、原判決は、「本件における慰謝料額の算定にあたっては六分法による聴力損失値を基礎として判断するのが相当である」(原判決一一二丁表)と判示して六分法を採用すべき理由をいくつか挙げるのみで、上告人の主張した右②ないし④の各基準に対しては、その妥当性を否定する根拠を何ひとつ判示することなく、六分法による労災認定値をもって慰謝料算定の基礎としており、この原判決には、判断脱漏による理由不備があり、②ないし④を採用しなかった点には、次のとおり、経験則違反の違法があると言わざるを得ない。
1 ②について
語音明瞭度を測定する語音聴力検査は、検査音として人の音声を使用するものであるから、純音聴力検査よりも会話の聴力能力を直接的に調べる方法とされている。現実にも、労災保険法では純音聴力検査成績に併せて、語音明瞭度も勘案して障害等級が決定されている。
したがって、被上告人らの聴力障害程度を評価するに当たっては当然、語音聴力検査成績を勘案すべきところ、かかる観点を欠く原判決には判断脱漏による理由不備及び経験則違反の違法がある。
2 ③について
本件被上告人らのように、比較的短期間に複数個の聴力検査データが存在し、しかも、その間にバラツキがある場合は、通常、聴力が実際より悪く測定されることはあっても、良く測定されることはまずあり得ないことから、医学的には最良の検査成績が真の聴力を最もよりよく示していると考えられている。
このことは、原審における岡本途也証人の証言からも明らかである。
「普通はこういうふうに並んでいるという場合には、いいほうのデータを大抵とります。……というのは……こういう認定問題とかいうようなときになってきているときには、必然的に意識する、意識しないは別として値が悪く出るということが非常に多いんで、ですので、いいほうのデータを重要視しようとすることが一応考えられているというわけです」(原審第九回岡本証人二七丁裏)
「とにかく真の値に近いものは、大体一番いいときが一番近いだろうと。要するに聞こえたと本人が反応しているというときが一番真の値に近いだろうということで、一番いい値を取ろうと」(原審第一一回岡本証人四八丁裏)
このように、経験則上、バラツキのある複数個の聴力検査結果が存在する場合には最良の検査結果が最も真の聴力値に近いとの医学的知見があるにもかかわらず、漫然とこれを採用しなかった原判決には判断脱漏による理由不備及び経験則違反の違法がある。
特に被上告人前田利次については、原判決は、<証拠>の「正しい聴力検査を含む再検査結果を見る必要がある」とする見解並びに原審における岡本途也証人の「(ロ)のデーター(昭和五二年三月二九日、神戸大学医学部付属病院における検査データー。五個ある前田の検査データーで最良の検査結果である)が真の聴力損失値をあらわしているのではないか」との証言を引用しているにもかかわらず(原判決二八一丁裏〜二八二丁表)、右見解・証言を排斥する理由を示さず、労災認定値を慰謝料算定の基礎としたことには、理由不備の違法がある。しかも、原判決は、上告人が前田について正しい聴力検査結果を知るために申請した鑑定を却下した上で右のとおり認定しており、この点で審理不尽の違法も犯していると言わざるを得ない。
3 ④について
左右耳の聴力低下の程度に左右差がある場合には、通常は良耳の聴力によってほとんど聴取できるため、聴力低下の程度に左右差がある人の聴力障害の程度は、両耳の聴力低下の程度が良耳の程度である人と大差がないとされている。例えば、聴力損失値が右耳四〇デシベル、左耳二〇デシベルの人は、両耳とも二〇デシベルの人とほとんど変わらない会話の聴取能力をもっているのである。
この点も、次の原審における岡本途也証人の証言から明らかである。
「我々両耳で聞いていますので、実際はいいほうの聴力のほうの耳でほとんど聞いてしまいます。……ですから……一側が正常であって、反対側が完全に聾であるといっても正常人とほとんど変わらない」(原審第九回岡本証人四〇丁裏)
したがって、聴力障害の程度が左右耳で異なる場合には、良耳の聴力障害の程度を基準に聴力障害の程度を評価すべきであるにかかわらず、これを採用しなかった原判決には判断脱漏による理由不備及び経験則違反の違法がある。
(二) さらに原判決が聴力障害の評価基準として四分法ではなく、六分法を採用した点についても、次のとおり採証法則違反の違法がある。
1 原判決は、語音帯域の聴力損失値の算出について「言語音中の有用なエネルギーは約二〇〇〇Hzから六一〇〇Hzの範囲にあるとの見解や、言語スペクトルの等識別点は約一六〇〇Hzであり、それ以上の周波数と、それ以下の周波数とは言語の理解に対して等しい重要性を持っているとの見解もあり」(原判決一一一丁裏〜一一二丁表)と認定し、これをひとつの根拠として六分法をもって聴力障害の程度を評価するべきと判示している。
右見解は、<証拠>からの引用であるが、同証の趣旨は高周波音域の聴取能力も日常生活を営む上で軽視できない局面があるので、「従来のように日常会話に支障を来たさない程度の聴力損失は止むを得ないという判断は……再考する必要が既に来ている」(三頁)という点にあり、決して聴力障害の程度は六分法をもって評価すべきであると主張しているわけではない。しかも右見解は通説ではない。すなわち、話しことばの了解に必要な成分は四〇〇から三〇〇〇ヘルツで、そのうちとくに重要な成分は五〇〇から二〇〇〇ヘルツという見解が有力であり(<証拠>、この点は原判決も認めるところである)、それ故に人の聴力障害の程度を表わす方法としては、五〇〇、一〇〇〇、二〇〇〇ヘルツの三つの音に対する聴力低下を評価対象とする四分法が、最も一般的な方法として採用されているのである(原審第九回岡本証人二一丁裏)。したがって本件においても、被上告人らの聴力障害の程度を評価するためには会話の聴取能力に重点が置かれた四分法によるべきである。
また、原判決は「職業上あるいは社会生活上ピッチの高い、弱い音を同定したり、あるいはその局在を認識することが重要な場合(例えば音楽を鑑賞したり、機械の故障を発見するような場合等)には、二〇〇〇Hz以上の高周波音域に対する聴力を保護する必要があるとの指摘も存すること」(原判決一一二丁表)からも六分法による聴力損失値を基礎として慰謝料を算定するべきであると判示する。
しかし、被上告人らは家族との会話に支障を来たし孤独感を感じたとか、テレビの音が聞こえにくいとか、正に会話の聴取能力に支障を来たした結果の精神的苦痛の慰謝を主張しているのであり、殊更原判決が言うように、高周波音域の聴取能力の低下により損害を被ったことを主張しているのではない。
したがって、被上告人らの損害の程度は、正に会話の聴取能力を最も正確に反映する四分法によるべきであり、六分法をもって評価すべきとする原判決には経験則違反の法令違背があると言わざるを得ない。
2 さらに原判決は「労働省は、昭和三四年ころ、従来採用していた四分法を六分法に改めるにあたっては、右のような専門家の意見を参考にしており、その後も労災保険審議会に設けられた難聴専門家会議、障害等級専門会議における審議によっても、六分法が維持されていることが認められる」(原判決一一二丁表)と判示しているが、これも明らかな誤りである。
上告人の原審準備書面(第七)において詳述のとおり、そもそも旧々基準から旧基準への移行すなわち四分法から六分法への移行は、労働者災害補償保険法施行規則を改正せずに軽度の障害者を救済対象に取り込むための便宜的方法として、昭和三二年二月から各労災病院の間に組織された身体障害認定基準調査委員会で決議されたものにすぎず(<証拠>)、変更提唱の中心人物であった河村進市医師自身が、この四分法から六分法への移行は主として行政政策としてなされたものである旨述べている(<証拠>)ことからも、医学的には何ら明確な根拠があるものではなかったのである。
次いで旧基準から新基準への移行においては、当初障害等級を表示する方法を四分法に戻すことを前提としていたものの、これを直ちに変更すると労災法上の補償額が下がる者、年金が一時金になる者が出現するため行政上の既得権を侵害するとして、行政担当者のみが四分法によることに反対したため(<証拠>、第一審第一九回岡本証人三二丁)、結局六分法は労災制度の運用の都合だけでそのまま維持されるになったものにすぎない。
したがって、四分法から六分法への移行は専門家の意見を尊重したことによるものではなく、行政サイドの運用上の都合によるものであることは明らかであり、この点においても原判決には採証法則違反及び経験則違反の法令違背があると言わざるを得ない。
(三) そうすると、先の①ないし④の基準に従い<証拠>のデータから、本件において被上告人らの慰謝料算定の基礎となる聴力損失値を見てみると、次のとおりであり、いずれも原判決の採用した労災認定値よりも良好な数値が得られるのであり、これに基づかず原判決が認定した慰謝料額は高きに失し、正されなければならない〔上告人の原審準備書面(第五)別表による。( )内の○のなかの数字はデータの番号を、左右はそのデータの骨導聴力の良い方の耳を示す〕。
被上告人 斉木福右衛門……42.5dB(⑤左)
被上告人 藤本忠美……23.8dB(①右)
被上告人 田中太重……50.0dB(①左)
承継前一審原告 佐々木次郎……33.8dB(④右)
承継前一審原告 横矢役太……31.3dB(③右)
被上告人 高橋一雄……52.5dB(①右)
被上告人 松田次郎作……36.3dB(⑦右)
被上告人 井村正一……32.5dB(⑤右)
承継前一審原告 西垣兀……28.8dB(⑦右)
被上告人 田野米三郎……32.5dB(②左)
被上告人 前田利次……31.3dB(②右)
二 控除事由、斟酌事由、損益相殺
原判決は、被上告人らの慰謝料算定に当たり、次に述べる各要因による聴力低下分を控除すべきと判示する。
①騒音性難聴以外の他原因(第一審判決七〇七丁裏〜七〇八丁表及び原判決一一二丁裏)
②加齢(第一審判決七〇八丁表及び原判決一一二丁裏〜一一三丁裏)
③上告人構内以外の他職場等における騒音曝露(第一審判決七〇八丁表)
④時効により消滅した部分(同七〇八丁表)
また、原判決は、被上告人らの慰謝料算定に際し、次の事情を斟酌すべきであると判示している。
⑤危険への接近(第一審判決七〇八丁及び原判決一一三丁裏〜一一四丁表)
⑥耳栓の不装着(第一審判決七〇八丁裏〜七〇九丁表及び原判決一一四丁)
右判示自体はいずれも正当なものであると認められるが、原判決は以下に述べるとおり各被上告人らの慰謝料算定に当たっては、右に述べた控除あるいは斟酌すべき事情をいずれも過少評価している。
さらに、⑦戦前・戦中の特殊事情下における騒音被曝による聴力低下分を不可抗力として控除しなかったこと、もしくはこれを慰謝料算定上斟酌しなかったこと、⑧上告人が騒音性難聴防止のため不断の努力を払った事情を斟酌しなかったこと、並びに⑨被上告人らが上告人から受給した会社上積補償金を損益相殺しなかったこと、もしくはこれを慰謝料算定上斟酌しなかったことも加わって、その結果、被上告人らに高額の慰謝料を認めており、理由齟齬、理由不備、経験則違反、採証法則違反の各違法がある。
(一) 騒音性難聴以外の他原因(伝音難聴)による聴力低下分の控除
原判決が被上告人松田次郎作の慰謝料を算定するに当たり、同人の聴力障害から伝音難聴による聴力低下分を控除しなかった点は、理由齟齬の違法がある。
原判決は、既述のとおり被上告人らの慰謝料を算定するに当たり、騒音性難聴以外の他の原因については控除すべきであると判示し(原判決一一二丁裏)、また事実承継前一審原告佐々木次郎については、「気導、骨導差については一〇〇〇Hzに一貫してある」(同一六七丁裏)ことから、伝音難聴による聴力低下分が含まれていることを認定し、これを控除すべき対象として挙げている(同一七一丁表)。
しかし、被上告人松田次郎作については「(ト)(チ)のデータでは一〇〇〇Hzの聴力に左右とも気導、骨導差が著しく」(同二一四丁裏)とし、伝音難聴による聴力低下分が含まれていることを認めているにもかかわらず、慰謝料算定にあたっては、それを控除すべき対象として挙げていない。
したがって、原判決の松田に関する慰謝料認定には、理由齟齬の違法があると言わざるを得ず、松田の伝音難聴による聴力低下分は、当然控除されるべきである。
ちなみに、松田の伝音難聴による聴力低下の割合は、聴力障害全体の44.9%にも達するのである(上告人の原審最終準備書面別表一、2/3)。
(二) 上告人構内以外の他職場等での騒音曝露による聴力低下分の控除
原判決は、加齢、伝音難聴による聴力低下分に加え、神戸造船所以外の他職場における騒音曝露による聴力低下分も控除すべきであるとしているが、被上告人ら各人毎の慰謝料算定に当たっては、この部分を過少評価している。
なぜなら、騒音性難聴は騒音曝露開始後一〇年でほぼ形成されるという医学的知見に照らせば、被上告人藤本忠美、同井村正一、同前田利次、承継前一審原告佐々木次郎、同横矢役太、同西垣兀は神戸造船所入構以前にそれぞれ約一〇年以上の騒音曝露の経歴があったのであるから、同人らの聴力低下のうち加齢、伝音難聴による聴力低下分を除く部分は、この間の騒音曝露によることになり、上告人の寄与分は認められなくなる。そして、仮に、騒音曝露後一〇年を経過しても聴力低下が進行するという見解に立ったとしても、<証拠>(以下「平均進展図」という)に基づき被上告人藤本忠美、同井村正一、同前田利次、継承前一審原告佐々木次郎、同横矢役太、同西垣兀の神戸造船所入構以前における騒音曝露による聴力低下分の割合を算出すると別表1のとおりであるから、原判決が上告人の寄与分とした割合は明らかに、経験則違反があると言わざるを得ない。
ちなみに被上告人藤本忠美を例にとり、別表1に示した「平均進展図」に基づく上告人における騒音被曝との因果関係を認め得る上限となる割合の算出方法について説明すると、次のとおりである。
藤本は神戸造船所入構以前の昭和一二年から同二五年までの間約一〇年にわたり他職場あるいは兵役により騒音に被曝し、その後約二四年間神戸造船所構内で就労したが、「平均進展図」によれば、一〇年以降の騒音曝露で、最も進展するとされる四〇〇〇ヘルツの聴力低下でさえ、騒音曝露開始後一〇年で約五〇デシベル、同三四年で約六七デシベルであるから、騒音環境下で三四年就労しても、曝露開始後一〇年でその聴力低下の50/67×100%=74.6%が惹起されていることとなる。
したがって、藤本の神戸造船所入構以前の聴力低下分の気導聴力損失値に対する割合は、加齢による聴力低下(30.7%)と伝音難聴による聴力低下分(5.4%)とを控除した割合63.9%に74.6%を乗じた47.7%となり、仮に、藤本の聴力低下分の内にいくばくか上告人の寄与分があるとしても、気導聴力損失値に対する割合で言えば、せいぜい16.2%(100−5.4−30.7−47.7)に過ぎないのである。
右述べたとおり、原判決が認定した右被上告人らの神戸造船所における騒音被曝と因果関係のある割合は、いずれも高きに失し、正されなければならない。
(三) 時効により消滅した聴力低下分の控除
1 原判決は、被上告人田中太重、同田野米三郎の聴力障害には時効により消滅した部分が含まれることを認定し、損害の評価にあたってはこれらを控除すべきであるとしている。そして田中、田野の時効により消滅した期間はそれぞれ約一一年、約九年であることから、騒音性難聴は騒音曝露開始後一〇年で聴力低下がほぼ固定するという医学的知見に照らせば、同人らの聴力低下のうち加齢、伝音難聴による聴力低下分を除く部分は、この間の騒音曝露によることとなり、上告人が責を負うべき部分は認められなくなる。
仮に騒音曝露後一〇年を経過しても聴力低下が進行するという見解に立ったとしても、「平均進展図」に基づき田中、田野の消滅時効により上告人の責任が消滅した間の騒音曝露による聴力低下分の割合を算出すると別表2のとおりであるから、原判決の上告人の寄与分とした割合には明らかに経験則違反があると言わざるを得ない。
ちなみに、田中を例にとり、別表2に示した「平均進展図」に基づく上告人が責を負うべき寄与分の割合の算出方法を説明すると次のとおりである。
田中が昭和二〇年八月以前に約一一年間にわたり騒音に曝露されていた間の上告人の責任は原判決も認めるとおり時効により消滅しており、昭和二五年以降は延べ約二二年間神戸造船所構内で就労した。
「平均進展図」によれば、騒音曝露一一年以降で最も進展するといえる四〇〇〇ヘルツの聴力低下をとってみても、騒音曝露開始後一一年で約五一デシベル、同三三年で約六六デシベルであるから、騒音環境下で約三三年就労しても、騒音曝露開始後一一年でその聴力低下の51/66×100%=77.3%が惹起されていることになる。
したがって、田中の聴力障害のうち騒音曝露による聴力低下分は別表2より61.0%であり、そのうち少なくとも77.3%、すなわち全体に占める割合では61.0×77.2%=47.2%が原判決の認める時効により消滅した部分であるため、寄与分は61.0−47.2=13.8%にしか過ぎないのである。
2 原判決は、被上告人斉木福右衛門、同高橋一雄、同松田次郎作の聴力障害には、時効により消滅した中途退職以前の騒音曝露による聴力低下分が含まれているにもかかわらず、第三点で述べたとおり明らかに民法七二四条の解釈適用を誤り、これらの聴力低下を控除対象と認めていないため、経験則違反の法令違背があると言わざるを得ない。
そして、被上告人田中太重で述べたところと同様、「平均進展図」に基づき被上告人斉木福右衛門、同高橋一雄に対し、上告人が責を負うべき聴力低下分の割合を算出すると別表2のとおりであるから、原判決の寄与分の算出方法には明らかに経験則違反がある。
なお、被上告人松田次郎作については昭和一六年八月から同一九年頃神戸造船所で就労した期間は時効により消滅しているが、この割合については次の(四)で述べることとする。
(四) 不可抗力による聴力低下分の控除
1 第二点、五、(二)で述べたとおり、戦前・戦中の特殊状況下に神戸造船所構内において就労し、騒音に曝露して何がしかの聴力低下を来たしても、それは不可抗力であり、上告人に損害賠償を請求することはできないので慰謝料算定に当たっては、かかる聴力低下分は控除されなければならない。原判決は、右不可抗力を認めなかったため控除を行わず、その結果被上告人らに高額の慰謝料を認定したことになり、理由齟齬、理由不備及び法令の解釈適用の誤りを犯している。
被上告人各人毎に、聴力損失値全体に対する右不可抗力による聴力低下分の割合を求めれば、次のとおりである。
(1) 被上告人田中太重及び同田野米三郎
田中及び田野の聴力障害のうち不可抗力による聴力低下分は、神戸造船所を一旦退社したことにより時効消滅した聴力低下分と同部分であり、その割合は別表2に記載のとおりである。
(2) 継承前一審原告横矢役太
亡横矢は昭和一五年六月以来、神戸造船所に入構しているが、その聴力障害の大半が、神戸造船所入構に先立つ川崎重工製鈑工場における騒音被曝、加齢並びに伝音難聴により形成されたものであり、神戸造船所構内の騒音被曝による聴力低下分は別表1に示すように全体の僅か7.8%にすぎない。この7.8%の内、大半が戦前・戦中下の騒音被曝によるものと思われ、これを控除すれば、もはや亡横矢の聴力損失には上告人が責を負うべき損害は残存しない。
(3) 被上告人松田次郎作
松田は、昭和一五年から同一六年五月までは日本製粉精米所で就労した後、昭和一六年八月から同一九年頃までは神戸造船所構内で就労した。戦前・戦中における神戸造船所構内における騒音被曝は不可抗力として、日本製粉精米所における騒音被曝と併せて、いずれも慰謝料算定に当たり控除されなければならない。仮に、<証拠>によってその割合を算出するとすれば、「平均進展図」で五年以降の騒音被曝で最も進展するとされる二〇〇〇ヘルツの聴力低下でさえ、曝露開始五年間で約二八デシベル、同三〇年で約四九デシベルであるから、騒音曝露開始後五年で障害の約五七%が惹起されていることがわかる。
したがって、伝音難聴及び加齢による聴力低下分を控除した残余の部分の内、少なくとも五七%は、日本製粉精米所及び戦前・戦中の神戸造船所での騒音被曝によるもので、損害から控除されなければならない。
(4) 被上告人南日輝
南に関しては、(九)で後述するとおり、そもそも骨導聴力が一切測定されていないから、全体の聴力損失値に対する伝音難聴及び加齢による聴力低下分を除いた割合がわからず、したがって戦前・戦中の不可抗力による聴力低下の割合は全くもって不明である。しかし、仮に南の聴力低下の内、騒音被曝による聴力低下分が含まれているとすれば、騒音性難聴が形成される過程において初期曝露の影響が大きいという医学的知見に照らし、騒音被曝による聴力低下分の内、約四年間に及ぶ戦前・戦中の不可抗力による聴力低下分が大半を占めると思われる。
2 右述べたとおり、戦前・戦中の神戸造船所における騒音被曝による聴力低下は、不可抗力であるから上告人を問責することはできないが、仮に不可抗力とまでは言えないとしても衡平の原則に照らし、原判決も認めるように、戦前・戦中が未曾有の特殊状況下にあり、上告人が安全配慮義務ないし注意義務を履行することは極めて困難であった事情(原判決一〇七丁表)は、慰謝料算定に当たり斟酌されなければならない。
原判決がこれに反し斟酌事由としていない点には、法令の解釈適用を誤った違法がある。
(五) 危険への接近の事情の斟酌
原判決は、「一審原告らが自己の体験に基づき一審被告神戸造船所構内における職場の騒音状況を知り、その騒音被曝により、現実に聴力が低下したことを自覚し騒音性難聴に罹患する危険のあることを認識しながら、他の就業先を選択して右危険を回避することが容易にできない等特段の事情がないにもかかわらず、敢えて一審被告あるいはその下請企業と雇傭契約を締結し再度又はそれ以上にわたり、同被告神戸造船所で就労し、そのために騒音性難聴による被害を被ったときは、具体的な事情の如何により、慰謝料の額を定めるについてこれを減額事由として考慮するのが相当である」(原判決一〇九丁裏〜一一〇丁表)と判示する。
右判決はそもそも、被上告人らの危険への接近の事情を慰謝料の減額事由としてのみ考慮すべきとする点で不当なのであるが、加えてこれを斟酌するに当たり、被上告人らが「自己の体験に基づき一審被告神戸造船所構内における職場の騒音状況を知り、その騒音被曝により現実に聴力が低下したことを自覚」(原判決一〇九丁裏)したことを要件としたことは、法令の解釈適用を誤った違法を犯している。
思うに、原判決は、個々の労働者の神戸造船所構内における騒音被曝状況が千差万別であること、騒音に対する受傷性の個人差が大きいこと等から鑑みて実際に神戸造船所に入構し、聴力低下を自覚して初めて危険の存在を知り得たと判断して、慰謝料算定上、危険への接近の事情を斟酌するに当たっては、右要件を必要とすると認めたものと推察される。しかし、危険の認識は、被上告人らの就労歴、当時の社会常識等からみて、危険の存在を知悉することが社会通念上相当であったか否かという観点から判定されるべきであり、原判決の右要件は問題にならないのである。そもそも、損害が発生して初めて危険の存在を認識できるなどという理論は法令の解釈適用を誤っている。
上告人が、「危険への接近」の適用を主張している被上告人らは、以前造船所及びそれに類する製造現場で就労し、一旦退職したにもかかわらず、自己が身につけていた技能を生かせる職種の現場作業に就くことを希望し、造船所の製造現場での作業を前提として、再度ないしそれ以上の回数にわたって就労するに至った者ばかりである。そして、原判決も認めるように、造船所において耳が聞こえなくなって初めて一人前になると言われた時代があり、少なくとも昭和二五年にはそういった風潮が残っていたこと(第一審判決六五五丁裏)、しかも、被上告人藤本忠美が、その本人尋問の中で、「もう一度、造船所にもどるということになれば、耳が悪くなるんじゃないかというような疑いは持たれなかったんですか」との上告人代理人の問いに対し、「(耳が)悪くなることはその時分、造船所で働く者は大概に、つんぼになって一人前ということでしたから、当然悪うなるということは考えたと思います」(第一審第二六回藤本本人四二丁裏)と答えていることにも明らかなように、被上告人らが造船所の現場は全て騒音職場である旨主張していること等を考え合わせると、被上告人は当然危険の存在を知悉して神戸造船所に入構したことは、証拠上明らかである。
したがって、原判決が慰謝料の算定に当たり、被上告人斉木福右衛門、同藤本忠美、同松田次郎作、同田野米三郎、同南日輝、継承前一審原告佐々木次郎、同西垣兀らについて危険への接近の事情を全く斟酌していないこと、並びに被上告人田中太重、同高橋一雄について聴力低下自覚時期以降の危険への接近の事情しか斟酌していない点は、法令の解釈適用を誤ったものである。
(六) 耳栓の不装着の斟酌
原判決には、被上告人ら各人毎の慰謝料算定に当たって上告人が耳栓を支給したにもかかわらず、被上告人らが耳栓を装着しなかった事情を斟酌すべきかどうか判断していない点で、判断脱漏による理由不備がある。
すなわち、原判決は、「耳栓が高音域で三〇dB前後の遮音効果があり、これを適切に着装すれば、騒音性難聴の進行程度を相当に抑えることができるものであり、一審原告らは、一審被告神戸造船所が騒音職場であり、騒音性難聴が発生するおそれがあることを認識しており、耳栓の装着指導も多かれ少なかれ受けていたものであるから、一審原告らにも耳栓を装着して自己の健康を保護すべき責任の一端があるものというべきであり(労働安全衛生法二六条、同規則五九七条参照)、この点を慰謝料算定にあたっては斟酌するのが相当である」(原判決一一四丁)と判示し、さらに被上告人各人毎に耳栓の支給・装着状況について事実認定をしながら、耳栓不装着の事情を被上告人らの慰謝料算定に当たり過失相殺すべきか否かの判断を全く下していないのは、明らかに判断脱漏による理由不備があると言うべきである。
特に、被上告人南日輝については、原判決は耳栓を「ヘルメットの後部や作業服の襟のボタン穴にぶら下げておくこともままあったようである。」(原判決二五四丁表)と事実認定している以上、かかる南の自己保健義務違反による聴力低下は、大幅に過失相殺されなければならない。
(七) 結果回避措置の斟酌
原判決には、被上告人らの慰謝料算定に当たって、上告人がなし得る限りの結果回避措置を講じた事情を斟酌すべきかどうか判断していない点で、法令の解釈適用の誤り、判断脱漏による理由不備がある。
すなわち、上告人は、その生産活動において不可避的に発生する騒音に対し、時代々々における社会情勢、医学的知見の水準及び工学技術の水準に照らし万全の措置を講じてきたことは既述のとおりであるが、仮に上告人のこれらの不断の努力が安全配慮義務、注意義務の完全な履行と認められないとしても、右事情は当然被上告人らの慰謝料を算定するについて斟酌されなければならない。
蓋し、慰謝料が精神的苦痛に対する賠償である以上、加害者と目される者の過失の程度によって、被害者の精神的苦痛に相違が生じるのは当然であり、また騒音性難聴という被害の発生を回避するための努力を払った使用者とそうでない使用者を同列に取扱うことは衡平を失するからである。
上告人は原審最終準備書面(総論)六五丁において、右主張を論述したにもかかわらず、原判決は何の判断も下していないようだが、もしそうであれば、原判決は慰謝料額の算定の斟酌事由についての判断を欠いているのであるから、判断脱漏による理由不備があり、原判決が斟酌しないという判断を下しているのであれば、法令の解釈適用の誤りがある。
(八) 会社上積補償金
原判決には、被上告人らの慰謝料算定に当たって、被上告人らが上告人から受給した会社上積補償金を損益相殺しなかった点、もしくは損益相殺しないまでも斟酌しなかった点で、理由不備、法令の解釈適用の誤りがある。
1 原判決は「被告は、労働組合の要求に基づき、労災保険給付の不十分なところを企業が独自に上積み給付を行なうことにより、これを補充するという考え方に立って……労災保険法に定める障害等級に応じた金員を支給することとなった」(第一審判決七一一丁)と認定し、「(5)(会社の上積補償金)は、労災保険法の災害補償給付(前記(1)(2))の補充として行われるものであって、その支給も右労災補償の等級に従って行われるのであるからこれと同様の趣旨をもつものとして設けられたものであって、そうすれば前記のとおり、労災保険法の災害補償給付は労働者の被った財産上の損害を填補するためのものと解される以上、会社の上積補償金も、また、同様のものと理解すべきであって、精神的損害の慰謝料から控除するのは妥当でないと考える」(同丁)と判示する。
原判決は、おそらく、被上告人らが判例(東京高裁、昭和五七年一〇月二七日判決、青木鉛鉄事件判例時報一〇五九号)を引用し、会社上積補償金は労災保険給付と同性質の給付であると主張している部分を認め、右のように判示したと思われる。しかし、被上告人ら引用の判例は、会社上積補償金について判示したのではなく労災保険給付の名義いかんを問わず、当該事故による身体障害を原因とする損害填補の実質を有するものである限り、慰謝料を含めた全損害に対する填補がされたものとして損益相殺するのが相当であるとされた事例である。
企業内上積補償は、被災者の損害(物的、精神的損害を含む)を早急にカバーするため、労使間の話合いにより、かなり普及されている制度ではあるが、その法的性格等を細かく規定したものはほとんど存在しないのが現実である。会社上積補償金は、原判決の判示するとおり、労災保険給付の不充分なところを補充するものではあるが、この不充分とは、労災保険では精神的損害がその対象となっていないことも含むのであり、また会社上積補償金が労災保険の等級に従って行われているのは、災害の程度をはかる目途として等級が利用されているに過ぎないのであって、このことから直ちに会社上積補償金が、財産上の損害のみを填補するものとは言い切れないものがある。
したがって、この会社上積補償金については見舞金とか弔慰金とかいった名目にとらわれず、その実質的機能や役割を直視して損益相殺の対象としているのが通例であり、妥当な措置なのであるから、本件訴訟においても、被上告人松田次郎作、同井村正一、同南日輝、承継前一審原告西垣兀が受領した会社上積補償金は、慰謝料と損益相殺されなければならない。
原判決には、会社上積補償金についての解釈を誤った結果、法令の解釈適用の誤りがある。
2 仮に、会社上積補償金は損益相殺の対象とならないとしても、少なくとも上告人から会社上積補償金を受領している事情は、慰謝料算定に当たり斟酌されなければならない。
蓋し、被害が他の制度により救済されている場合と、全く放置されている場合とでは、被害者の受ける精神的苦痛に格差が生じることは当然であり、この要素を無視して慰謝料を算定することは、両者の間の均衡を失し、衡平な取扱いと言えないのである。
したがって、労災保険法による給付に加えて直接上告人から会社上積補償金も受給している被上告人四名の慰謝料算定に当たっては、この事情は斟酌されてしかるべきであり、何ら斟酌しなかった原判決には法令の解釈適用の誤りがある。
(九) 被上告人南日輝の損害評価
被上告人南日輝の慰謝料に関する原判決の認定には、理由不備の違法がある。
すなわち、第一点で述べたとおり、騒音性難聴は感音難聴であるから、その損害程度も骨導聴力の損失程度が限度となる。しかし、南の聴力検査では既述のとおり骨導聴力が一切測定されていないから、気導聴力の低下分から加齢による聴力低下分と時効により責任の消滅した期間の聴力低下分を除いた残余の聴力低下のすべてが、騒音によってもたらされたのか否かがそもそも不明である。特に、南の場合には神戸造船所を退職以降に急激に聴力低下が進行している事情からして、原判決が慰謝料額算定の基礎とした昭和五一年九月三〇日の聴力検査時点に伝音難聴による聴力低下分が含まれている蓋然性は極めて高いと言うべきである。
しかるに、これを漫然と右時点の検査結果から単に加齢による聴力低下分と時効により責任の消滅した期間の聴力低下分のみを控除し、その余の聴力低下分はいずれも神戸造船所での騒音曝露と因果関係があるとして、損害額を算定した原判決は証拠に基づかない認定をした点で採証法則違反ないし理由不備の違法がある。
なお、原判決がかかる違法を侵した原因は、そもそも騒音性難聴か否かの判断ができない南の聴力障害を騒音性難聴と認定したことに起因するものであって、因果関係で述べた原判決の違法は損害評価の面にも重大な影響を及ぼしていると言わなければならない。
三 上告人の主張する被上告人各人の慰謝料
一、二で詳述したとおり、被上告人らの慰謝料を算定するに当たり、原判決は理由不備、理由齟齬及び判決に影響を及ぼすこと明らかな法令違背を犯したため、過大な慰謝料を認定しているが、被上告人ら各人毎に整理すれば次のとおりである。
(一) 被上告人斉木福右衛門
斉木の聴力低下分の内、神戸造船所構内における騒音被曝と因果関係がある聴力低下分の占める割合は、最大限、伝音難聴による聴力低下分、加齢による聴力低下分を除いた39.3%であり、そこから時効消滅した期間における聴力低下分32.7%を除けば、僅か6.6%に過ぎない(別表2参照)。加えて、斉木が危険への接近を行った事情、上告人が騒音性難聴の防止に不断の努力を払ってきた事情を斟酌すれば、もはや、同人に支払われるべき慰謝料は存在しない。
(二) 被上告人藤本忠美
藤本の聴力低下分の内、神戸造船所における騒音被曝と因果関係のある聴力低下分の占める割合は、最大限、伝音難聴による聴力低下分、加齢による聴力低下分及び他所就労時の騒音被曝による聴力低下を除いた16.2%に過ぎない(別表1参照)。加えて、藤本が危険への接近を行った事情、上告人が騒音性難聴の防止に不断の努力を払ってきた事情を斟酌すれば、もはや同人に支払われるべき慰謝料は存在しない。
(三) 被上告人田中太重
田中の聴力低下分の内、神戸造船所構内における騒音被曝と因果関係のある聴力低下分の占める割合は、最大限、伝音難聴による聴力低下分と加齢による聴力低下分を除いた61.0%であり、そこから時効消滅した期間(もしくは戦前・戦中の特殊状況下のため不可抗力である期間)における聴力低下分47.2%を除けば、僅か13.8%に過ぎない(別表2参照)。加えて、田中が危険への接近を行った事情、上告人が騒音性難聴の防止に不断の努力を払ってきた事情を斟酌すれば、もはや同人に支払われるべき慰謝料は存在しない。
(四) 承継前一審原告佐々木次郎
亡佐々木の聴力低下の内、神戸造船所における騒音被曝と因果関係のある聴力低下分の占める割合は、最大限、伝音難聴による聴力低下分、加齢による聴力低下分及び他所就労時の騒音被曝による聴力低下分を除いた僅か7.3%に過ぎない(別表2参照)。加えて、亡佐々木が危険への接近を行った事情、上告人が騒音性難聴の防止に不断の努力を払ってきた事情を斟酌すれば、もはや同人に支払われるべき慰謝料は存在しない。
(五) 承継前一審原告横矢役太
亡横矢の聴力低下分の内、神戸造船所における騒音被曝と因果関係のある聴力低下分の占める割合は、最大限、伝音難聴による聴力低下分、加齢による聴力低下分及び他所就労時の騒音被曝による聴力低下分を除いた7.8%に過ぎない(別表1参照)。しかも、この7.8%は大部分が戦前・戦中の特殊状況下にあって不可抗力である期間に形成されたもので損害から控除されなければならず、さらに、亡横矢が危険への接近を行った事情、上告人が騒音性難聴の防止に不断の努力を払ってきた事情を斟酌すれば、もはや同人に支払われるべき慰謝料は存在しない。
(六) 被上告人高橋一雄
高橋の左耳の低下は原判決も認めるとおり、そもそも損害賠償の対象足り得ず、右耳の聴力低下分についても、伝音難聴による聴力低下分、加齢による聴力低下分を除けば、全体の62.9%であり、そこから時効消滅した期間における聴力低下分を除けば、僅か3.1%に過ぎない(別表2参照)。加えて、高橋が危険への接近を行った事情、上告人が騒音性難聴の防止に不断の努力を払ってきた事情を斟酌すれば、もはや同人に支払われるべき慰謝料は存在しない。
(七) 被上告人松田次郎作
松田の聴力低下分の内、原判決が全く損害から控除していなかった伝音難聴による聴力低下分は44.9%、加齢による聴力低下分は37.7%を占め、これらを除くと17.4%に過ぎない(上告人の原審最終準備書面別表一、2/3)。この内の五七%は、神戸造船所入構前の他所就労時の騒音被曝及び時効消滅した期間(もしくは戦前・戦中の特殊状況下のため不可抗力である期間)における騒音被曝によって形成されたものであるから(二、(四)、1.(3))、これらを除くと損害賠償の対象たり得る聴力低下分は全体の17.4×(100−57)%=7.5%に過ぎない。加えて、松田が危険への接近を行った事情、上告人が騒音性難聴の防止に不断の努力を払ってきた事情を斟酌し、さらに、上告人から受領した会社上積補償金五五万円を損益相殺あるいは受領した事情を斟酌すれば、もはや同人に支払われるべき慰謝料は存在しない。
(八) 被上告人井村正一
井村の聴力低下分の内、神戸造船所における騒音被曝と因果関係のある聴力低下分の占める割合は、最大限、伝音難聴による聴力低下分、加齢による聴力低下分及び他所就労時の騒音被曝による聴力低下分を除いた僅か6.0%に過ぎない(別表1参照)。加えて、上告人が騒音性難聴の防止に不断の努力を払ってきた事情を斟酌し、上告人から受領した会社上積補償金三〇万円を損益相殺あるいは受領した事情を斟酌すれば、もはや同人に支払われるべき慰謝料は存在しない。
(九) 承継前一審原告西垣兀
亡西垣の聴力低下分の内、神戸造船所における騒音被曝と因果関係のある聴力低下分の占める割合は、最大限、伝音難聴による聴力低下分、加齢による聴力低下分及び他所就労時の騒音被曝による聴力低下分を除いた11.8%に過ぎない(別表1参照)。加えて、亡西垣が危険への接近を行った事情、上告人が騒音性難聴の防止に不断の努力を払ってきた事情を斟酌し、上告人から受領した会社上積補償金四〇万円を損益相殺あるいは受領した事情を斟酌すれば、もはや同人に支払われるべき慰謝料は存在しない。
(一〇) 被上告人田野米三郎
田野の聴力低下分の内、神戸造船所における騒音被曝と因果関係のある聴力低下分の占める割合は、最大限、伝音難聴による聴力低下分、加齢による聴力低下分を除いた50.2%であり、そこから時効消滅した期間(もしくは戦前・戦中の特殊状況下のため不可抗力である期間)における聴力低下分37.2%を除けば僅か13.0%に過ぎない。加えて、田野が危険への接近を行った事情、上告人が騒音性難聴の防止に不断の努力を払ってきた事情を斟酌すれば、もはや同人に支払われるべき慰謝料は存在しない。
(一一) 被上告人南日輝
南に関しては、そもそも骨導聴力損失値が測定されていないので、同人の聴力低下分の内、神戸造船所構内における騒音被曝と因果関係のある聴力低下分の占める割合を推定することは不可能である。しかし、仮に、因果関係がある何がしかの聴力低下分があるとしても、その大部分は戦前・戦中の特殊状況下における騒音被曝によって形成されたものであり、不可抗力なので損害から控除されなければならない。加えて、南が耳栓を支給されたにもかかわらず自らの過失で耳栓を装着しなかった事情を過失相殺し、危険への接近を行った事情、上告人が騒音性難聴の防止に不断の努力を払ってきた事情を斟酌し、上告人から受領した会社上積補償金一一七万円を損益相殺あるいは受領した事情を斟酌すれば、もはや同人に支払われるべき慰謝料は存在しない。
(一二) 被上告人前田利次
前田の聴力低下分の内、神戸造船所における騒音被曝と因果関係のある聴力低下分の占める割合は、最大限、伝音難聴による聴力低下分、加齢による聴力低下分及び他所就労時の騒音被曝による聴力低下分を除いた僅か2.3%に過ぎない(別表1参照)。これに加えて、上告人が騒音性難聴の防止に不断の努力を払った事情を斟酌すれば、もはや同人に支払われるべき慰謝料は存在しない。
四 原判決の採用する事由による上告人の寄与分
以上に述べた損害に関する上告人の主張が容れられず、原判決の認定した損害の評価方法、斟酌事由、控除事由しか採用されないとしても、限判決が認定した上告人の寄与分は過大であり、そのことについて条理に反し、理由不備の違法を犯している。
(一) 原判決は、伝音難聴による聴力低下分、加齢による聴力低下分を控除しているが、これらは数値(聴力損失値)をもって明らかにできるのであるから、その割合を百分比で求めることができる。
また、原判決は、神戸造船所入構前の騒音曝露、時効により消滅した部分を控除しているが、これらも数値(年数)をもって明らかにできるのであるから、その割合を百分比で求めることができる。
してみると、上告人の寄与分は、最大でも右の各事由の割合を差し引いた残存部分に限られることになり、これを数値で計算することは可能である。
上告人の寄与分を認定する場合において、このように計算が可能な場合は、特に特別な事情のない限り計算結果をもとに認定するのが条理にかなうものである。
(二) そこで、これを算定すると別表3及び別表4となり、原判決の認定した上告人の寄与分よりはるかに少ない寄与しかないのである(ただし、被上告人高橋一雄については、原判決の認定した寄与分とほぼ等しい結果となる)。
別表3について説明すると、原判決の認定した聴力損失値は六分法であるから、それから原判決の認定した伝音難聴による聴力低下分(六分法)及び加齢による聴力低下分(六分法)を控除した上、「平均進展図」に基づき、原判決の認定した神戸造船所入構前の騒音被曝期間における聴力低下分の割合を算出し、これらを控除したものが神戸造船所構内における騒音被曝と因果関係を認め得る上限となる割合を示すことになる。
同様に別表4について説明すると、原判決の認定した聴力損失値は六分法であるから、これから原判決の認定した伝音難聴による聴力低下分(六分法)及び加齢による聴力低下分(六分法)を控除した上、被上告人田中太重、同田野米三郎、同南日輝については、「平均進展図」に基づき、原判決の認定した時効により消滅した期間における聴力低下分の割合を算出し、これらを控除したものが神戸造船所構内における騒音被曝と因果関係を認め得る上限となる割合を示すことになる。
以上から、原判決の上告人の寄与分の認定は条理に反する違法なものであり、かつ理由不備の違法を犯したものである。
1 被上告人斉木福右衛門
原判決は斉木の慰謝料を算定するに当たり、労災認定値右四九デシベル、左五二デシベルを基礎とし、これから加齢に基づく平均聴力損出値21.5デシベルの控除を認めている(原判決一二三丁裏〜一二四丁表)。これに従って、寄与分を算出すれば、最大限56.1〜58.7%となり(別表4参照)、寄与分を七割程度と認めた原判決には、条理に反する違法及び理由不備がある。
2 被上告人藤本忠美
原判決は、藤本の慰謝料を算定するに当たり、労災認定値右三三デシベル、左三八デシベルを基礎とし、これから①逸見鉄工所及び海軍工廠における騒音被曝による聴力低下分、②加齢による聴力低下分8.9デシベルの控除を認めている(原判決一四九丁表)。騒音被曝開始後一〇年以降も聴力低下が進行するという見解に立ち、①を二、(二)で述べたように「平均進展図」に基づき求め、神戸造船所の寄与分を算出すると、最大限23.7〜24.7%となり(別表3参照)、寄与分を六割程度と認めた原判決には、条理に反する違法及び理由不備がある。
3 被上告人田中太重
原判決は、田中の慰謝料を算定するに当たり、労災認定値右五三デシベル、左五三デシベルを基礎とし、これから①時効により消滅した昭和二〇年八月以前の騒音被曝による聴力低下分、②加齢による聴力低下分21.5デシベルの控除を認めている(原判決一五九丁裏〜一六〇表)。①を二、(三)で述べたように、「平均進展図」に基づき求め、神戸造船所の寄与分を算出すると、最大限13.5%となり(別表4参照)、寄与分を三割程度と認めた原判決には、条理に反する違法及び理由不備がある。
4 承継前一審原告佐々木次郎
原判決は、亡佐々木の慰謝料を算出するに当たり、①他職場(川崎重工業構内)における騒音被曝による聴力低下分、②伝音難聴による聴力低下分、③加齢による聴力低下分16.3デシベルの控除を認めている(原判決一七一丁)。①を二、(二)で述べたように「平均進展図」に基づき求め、また、②を六分法で算出すると右6.7デシベル、左5.9デシベルとなるので、神戸造船所の寄与分を算出すると、最大限8.6〜9.3%となり(別表3参照)、寄与分を四割程度と認めた原判決には、条理に反する違法及び理由不備がある。
5 承継前一審原告横矢役太
原判決は、亡横矢の慰謝料を算定するに当たり、関西労災病院で測定した聴力損失値(<証拠>)右41.7〜43.3デシベル、左50.8デシベルを基礎とし、これから②他職場(川崎重工製鈑工場)における騒音被曝による聴力低下分、②加齢による聴力低下分21.5デシベルの控除を認めている(原判決一九〇丁表)。①を二、(二)で述べたように「平均進展図」に基づき求め、神戸造船所の寄与分を算出すると、最大限8.6〜12.1%となり(別表3参照)、寄与分を五割程度と認めた原判決には、条理に反する違法及び理由不備がある。
6 被上告人松田次郎作
原判決は、松田の慰謝料を算定するに当たり、労災認定値右四二デシベル、左五七デシベルを基礎とし、これから①他職場(日本製粉精米所)における聴力低下分、②加齢による聴力低下分16.3デシベルの控除を認めている(原判決二一七丁裏)。①を二、(二)で述べたように「平均進展図」に基づき求め、神戸造船所の寄与分を算出すると、最大限38.7〜45.2%となり(別表3参照)、寄与分を七割程度と認めた原判決には、条理に反する違法及び理由不備がある。
7 被上告人井村正一
原判決は、井村の慰謝料を算定するに当たり、労災認定値右三五デシベル、左三八デシベルを基礎とし、これから①他職場(松帆鉄工所)における騒音被曝による聴力低下分、②加齢による聴力低下分16.3デシベルの控除を認めている(原判決二二七丁)。①を二、(二)で述べたように「平均進展図」に基づき求め、神戸造船所の寄与分を算出すると、最大限6.4〜6.8%となり(別表3参照)、寄与分を六割程度と認めた原判決には、条理に反する違法及び理由不備がある。
8 承継前一審原告西垣兀
原判決は、亡西垣兀の慰謝料を算定するに当たり、労災認定値右三六デシベル、左四二デシベルを基礎とし、これから①他職場(帝国酸素、昭和製作所)における騒音被曝による聴力低下分、②加齢による聴力低下分16.3デシベルの控除を認めている(原判決二三八丁)。①を二、(二)で述べたように「平均進展図」に基づき求め、神戸造船所の寄与分を算出すると、最大限14.7〜16.5%となり(別表3参照)、寄与分を六割程度と認めた原判決には、条理に反する違法及び理由不備がある。
9 被上告人田野米三郎
原判決は、田野の慰謝料を算定するに当たり、労災認定値右四三デシベル、左四〇デシベルを基礎とし、これから①消滅時効により責任の消滅した期間の騒音被曝による聴力低下分、②加齢に基づく平均聴力損失値16.3デシベルの控除を認めている(原判決二四八丁)。①を二、(三)で述べたように「平均進展図」に基づき求め、神戸造船所の寄与分を算出すると、最大限15.3〜16.0%となり(別表4参照)、寄与分を三割程度と認めた原判決には、条理に反する違法及び理由不備がある。
10 被上告人南日輝
原判決は、南の慰謝料を算定するに当たり、昭和五一年九月の衛生課で測定された聴力損失値(<証拠>)右48.3デシベル、左42.5デシベルを基礎とし、これから①消滅時効により責任の消滅した期間の騒音被曝による聴力低下分、②加齢に、基づく平均聴力損失値8.3デシベルの控除を認めている(原判決二五九丁)。①を二、(三)で述べたように「平均進展図」に基づき求め、神戸造船所の寄与分を算出すると、最大限38.8〜40.0%となり(別表4参照)、寄与分を六割程度と認めた原判決には、条理に反する違法及び理由不備がある。
11 被上告人前田利次
原判決は、前田の慰謝料を算出するに当たり、労災認定値右四五デシベル、左四五デシベルを基礎とし、これから①神戸造船所入構前における騒音被曝による聴力低下分、②加齢による聴力低下分16.3デシベルの控除を認めている(原判決二八四丁)。①を二、(二)で述べたように「平均進展図」に基づき求め、神戸造船所の寄与分を算出すると、最大限10.8%となり(別表3参照)、寄与分を六割程度と認めた原判決には、条理に反する違法及び理由不備がある。
民事訴訟法第一九八条二項の申立
申立の趣旨
被上告人藤本忠美は上告人に対し、金二、〇五五、八〇六円ならびにこれに対する昭和六三年一一月二九日から完済に至るまで年五分の割合による金員を、被上告人松田次郎作は上告人に対し、金三、四二二、四〇九円ならびにこれに対する昭和六三年一一月二九日から完済に至るまで年五分の割合による金員を、それぞれ支払え
との判決を求める。
申立の理由
一 被上告人藤本忠美及び被上告人松田次郎作は、本件上告事件の原審である大阪高等裁判所昭和五九年(ネ)第一五〇二号及び第二五一〇号損害賠償請求控訴事件につき同庁が昭和六三年一一月二八日言い渡した判決に付された仮執行の宣言に基づき、同日仮執行を行い、被上告人藤本忠美は、執行債権金二、〇四六、九〇四円と執行費用金八、九〇二円の合計金二、〇五五、八〇六円に相当する上告人所有の現金を、被上告人松田次郎作は、執行債権金三、四一一、五〇七円と執行費用一〇、九〇二円の合計金三、四二二、四〇九円に相当する上告人所有の現金を、それぞれ差押え支払を受けた。
二 よって上告人は、右被上告人らに対し、上告審において原判決が変更され、右被上告人らの請求が棄却される場合において、前記仮執行に基づき上告人が差押えを受け支払った金員及びこれに対する前記支払の翌日である昭和六三年一一月二九日から完済まで年五分の民法所定利率による遅延損害金の支払を求めるため、民事訴訟法第一九八条第二項に基づき本申立に及んだ。